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日本のフランス文学者 (1901-1975) ウィキペディアから
渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治34年)9月25日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本のフランス文学者・評論家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。
1901年、東京府生まれ。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巖谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、1925年東京帝国大学文学部仏文学科卒。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。
卒業後の1925年、旧制東京高校にフランス語の語学教員として勤務、1931年から1933年、文部省研究員としてフランスへ留学。1940年東京帝国大学文学部講師、1942年より助教授。戦争が激化する中、ラブレーなどの翻訳を行った。
戦後の1948年からは東京大学教授。1956年からは明治大学兼任教授。1952年頃、中央大学(学部、大学院)でもフランス文学を教授した。 この間、1955年に出版した『うらなり抄』はベストセラーとなった[1]。 1962年東京大学を定年退官し、立教大学文学部教授に就任。教え子で同学一般教育部専任講師としての職を得ていた渡辺一民とともに、文学部フランス文学科の創設に尽力した。1966年から1971年まで明治学院大学文学部教授。この間1967年、パリ大学附属東洋語学校客員教授も務めた。1956年に「フランソワ・ラブレー研究序説」を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1966年、日本学士院会員に選出。
フランソワ・ラブレーの難解な中世フランス語の作品『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は、1941年の『第一之書 ガルガンチュア物語』から、1965年『第五之書』(偽書との説も強い)まで長年かけ翻訳・刊行させ、その後も訂正、改訳、補注を重ね、没する直前の1975年の岩波文庫版完結まで続けられた。その訳業で1965年読売文学賞(研究・翻訳部門)受賞。1971年度朝日賞受賞[2]。なお1960年にも、岩波文庫版『千夜一夜物語』の全訳で読売文学賞(同部門)を、佐藤正彰らと共同受賞している。リラダン、サルトル、カミュなど現代に至るフランス文学も紹介し続け、晩年の仕事として、16世紀のアンリ四世・マルゴ公妃らの数奇な運命の物語『戦国明暗二人妃』などがある。
大学教授として、二宮敬、串田孫一、森有正、菅野昭正、辻邦生、清岡卓行、清水徹、大江健三郎ら数々の文学者を育てた(「弟子」とみなすのを嫌い、教え子を「若い友人」と呼んだ)。
大江健三郎は、高校在学中に渡辺の『フランスルネサンス断章』(岩波新書)に感銘を受け、渡辺の下へ進学し学び、没後に『日本現代のユマニスト 渡辺一夫を読む』(岩波セミナーブックス)を著した。辻邦生も、進学先を仏文学科に転じた。また三島由紀夫はヴィリエ・ド・リラダンの翻訳者として渡辺を尊敬し、1949年に出版した短篇集『宝石売買』(講談社)を上梓するにあたって序文を渡辺に貰っている[4]。高校時代から渡辺のエッセイを愛読していた今江祥智は、大学を卒業して名古屋市に住んでいた時、南山大学にて恩師新村猛から紹介され、渡辺と言葉を交わす機会を得て感激したと回想している。
息子渡辺格(動物評論家)の回想によれば、共産主義を信奉しており、共産主義諸国の独裁制についても「資本主義国からの介入を防ぐためにやむをえない処置」と考え、後年、共産主義国に関する種々の情報を入手してからも、「ソヴィエト・ロシヤの人間化を切に願っている」(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」1951年)と述べつつ、共産主義には好意的であり続けたといわれる[5]。
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