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江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京麹町生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鷗外と同期であった。
三重四中から第四高等学校に進学するも父と進路をめぐって対立し、四高を退学、第五高等学校に入り直す。この時期には俳句に没頭し、河東碧梧桐に認められる。1912年、東京帝国大学英文科に進学する。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』(後に「赤い矢帆」と改題)を発表し、作家として認められる。このころから佐藤春夫・広津和郎・宇野浩二たちとの交友がはじまる。また、夏目漱石の知遇をうけ、漱石山房をしばしば訪れる。さらに芥川龍之介との交流も始まる(漱石の葬儀の際には、芥川と共に受付を務める)。1915年には北川千代と結婚(1922年に離婚)、1917年に大学を中退する。
1920年の日本社会主義同盟の結成大会に出席し、中央執行委員に選ばれる。1927年には小川未明らと日本無産派文芸連盟を結成したが、1928年に解散[1]。同年の蔵原惟人の提唱による日本左翼文芸家総連合の結成に参加したころから、『戦旗』派に接近し、1930年には日本プロレタリア作家同盟の中央委員長に選出された。1933年の小林多喜二の死に際しては葬儀委員長をつとめ、それを理由に検挙されたこともある。
戦争の激化とともに、1944年には郷里の烏山に疎開し、そこで終生過ごすことになった。1951年の宮本百合子の死去のときにも葬儀委員長をつとめたように、民主主義文学の長老として、いわばお目付け役のような役割を果たしていた。また、1961年には中野重治とともに日本共産党の中央委員にも選出された。
1964年の新日本文学会第11回大会にあたって、当時の幹事会報告草案が、部分的核実験禁止条約への賛成をおしつけるような、当時の会の内部にあった意見の相違を無視する一方的なものであったことに反対し、霜多正次たちとともに、大会で意見の相違を保留して一致できる点で運動をすすめようとする〈対案〉を提出しようとしたが、大会の議長団によって拒否され、大会後にはそれを理由にして新日本文学会を除籍された。翌年の1965年には、日本民主主義文学同盟の創立大会で議長に選ばれ、死去までその職にあった。
処女作の『かかり船』は耽美的な作品であったが、大学を中退した頃からは社会の矛盾に目を向け、社会主義や無政府主義に近付いたため、社会の矛盾を告発するような作風へと変化している。この時期の作品としては『馬車屋と軍人』(1917年)『労働者誘拐』(1918年)がある。
1920年代に入ってからは、1923年の大杉栄、1924年には中浜鉄・古田大次郎など、親交のあった無政府主義者が次々と弾圧されるなかで、無政府主義から徐々に離れ、プロレタリア文学運動の方向に動いていく。この時期の作品としては『恋と牢獄』(1923年)、『彼と彼の内臓』(1927年)がある。プロレタリア文学運動の退潮期にも、『人生の入り口』(1935年)など地道に創作活動を続けていた。
戦後、小林多喜二の虐殺の真相をいち早く明らかにし、新日本文学会の発起人もつとめ、民主主義文学運動を推進するとともに、地元の後進たちの指導にもあたった。農村の戦後の改革を描いた『花嫁と馬一匹』(1948年)がこの時期の代表作である。1950年代に入ってからは、小説よりも回想記の執筆が主となり、『わが文学半生記』(1953年)は大正時代の日本文学の貴重な証言となっている。1970年、歌集『わけしいのちの歌』で、多喜二・百合子賞を受賞した。
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