武田勝頼
日本の戦国~安土桃山時代の武将、大名、第17代武田氏当主 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪(諏方) 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田氏第17代当主。甲斐武田氏第20代当主。
武田勝頼像(高野山持明院蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文15年(1546年)[1][2] |
死没 | 天正10年3月11日[3](1582年4月3日) |
改名 | 諏訪勝頼→武田勝頼 |
別名 | 伊奈勝頼、通称:四郎 |
戒名 | 景徳院殿頼山勝公大居士 |
墓所 |
法泉寺、景徳院(山梨県) 妙心寺玉鳳院(京都府京都市) 高野山奥の院(和歌山県) |
官位 | 大膳太夫を名乗るが、公称か僭称かは不明[4][5][注釈 1]、左京大夫?(『言経卿記』天正10年3月22日条) |
幕府 | 室町幕府信濃守護職 |
主君 | 武田信玄 |
氏族 | 神氏諏訪氏→源姓武田氏 |
父母 |
父:武田信玄 母:諏訪御料人 |
兄弟 | 義信、海野信親、信之、勝頼、仁科盛信、葛山信貞、信清、黄梅院、菊姫他 |
妻 |
正室:龍勝院(遠山直廉の娘、織田信長養女) 継室:北条夫人(北条氏康六女) |
子 | 信勝、男(周哲大童子)[6]、勝親、貞姫(宮原義久室)、他 |
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本姓では源 勝頼(みなもと の かつより)。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策をもって領国拡大方針を継承し一時は信玄も落とせなかった駿河の高天神城を落城させ、東美濃の明知城、三河の浜松城、吉田城を攻撃するなど武田家としての最大版図を達成するが、天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退し多くの重臣たちを失ったことを契機に領国の動揺を招く。その後の長尾上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。