梅本貞雄
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梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月22日)は、長崎市生まれの写真史家。1920年代から日本の写真の歴史の研究を行い、日本初の写真史家といわれる。
1900年に長崎の写真師上野彦馬撮影局があった伊勢町中島川畔で産まれる。祖父梅本栄太郎、祖母ことの手で養育されたが、祖父は上野の友人で、幼い梅本によく上野の話をしていたという[1][2]。梅本は長崎市立勝山小学校をへて、市立長崎小学校に入学後、郷土史家古賀十二郎に私淑して「我国の文明史料の研究」「開港場長崎の歴史」の研究を開始。古賀の薫陶をうけ、長崎が写真発祥の地と知り、上野彦馬と門下生の研究を始める。長崎商業学校時代には、写真術も修業した。大正6年(1917年)頃、同郷の永見徳太郎、松尾弔春子(従兄)、小松原敏と俳諧同人誌「覇」を結成したが、彼らも写真史家となる。長崎商業学校卒業後、大連に渡航して満鉄に職を得たが10カ月して辞職、上京して、出版社玄同社を経営して「碧梧堂句集」を刊行するも倒産。1925年以降は居を東京板橋に定め、著述と句と読書にふける文筆業に入った[3]。
梅本は論文執筆以外にも、写真史学の組織化を目指した[4]。教育機関での、写真史教育、写真資料展の運営、初期写真師顕彰活動、学会創設、写真資料博物館構想、六月一日写真の日制定運動を推進する。写真史教育では、1929年開校したオリエンタル写真学校の外来講師、オリエンタル社を1934年退社した、木村専一が創設した武蔵野写真学校では1年間「写真史講座」を開いた。1937年東京三越百貨店で開かれた「ダゲレオタイプ発明百年記念写真文化展」で全国の資料所有者に連絡して写真資料の収集展示を行った。初期写真師顕彰事業として、1927年の下岡蓮杖碑設立や、1934年上野彦馬銅像設立への協力、1955年には蓮杖会を設立する。1936年梅本の主導で、「日本写真史学会」を設立した。昭和20年代にオリエンタル社や小西六の社史編纂に招聘された。彼の研究に基づく、多数の雑誌寄稿はあったが、単著の著作はないので、業績の割には知られていない[5]。
本人には、ほかにいくつかペンネームがある[6]。
(略 ― 1960年に至るまでこの他に多数の雑誌寄稿がある)
1951年制定された写真の日は梅本の説に基づいて6月1日になっている。上野俊之丞は蘭語、理化学、特に光学に精通していた。彼の熱心な研究により、ダゲレオタイプで撮影することは、短期間に習得しえると考えられた。天保12年(1841年)、西洋機器と薬物製造の委嘱を受けて薩摩藩の蘭学者松木雲徳、その養子藤太郎の案内で海路薩摩に渡り、6月1日、島津斉彬を撮影した。
しかし、現在(2014年)の時点でこれは誤りとされる。俊之丞の確実な輸入は嘉永元年(1848年)とされる。天保14年(1843年)には、蘭船がダゲレオタイプを船に載せたが、日本国内に上陸していない。しかも、天保12年(1841年)6月1日には島津斉彬は江戸藩邸に滞留中であった[7][8]。
なお、日本に写真が渡来したのは嘉永年間とされる。最初にダゲレオタイプ(銀板写真)の撮影が成功したのは、安政4年(1857年)9月17日に、薩摩藩士市来四郎、宇宿彦右衛門らが藩主島津斉彬を撮影したもので、現在鹿児島の尚古集成館に保存されている。平成11年(1999年)6月、この銀板写真が写真としては初めて、国の重要文化財に指定された[9]。しかし、一度決定した写真の日の変更はない。
1959年11月号のアサヒカメラには「写真商売うらおもて、写真史研究家」と銘打って座談会が行われた。
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