枝野幸男
日本の政治家、弁護士 (1964-) ウィキペディアから
日本の政治家、弁護士 (1964-) ウィキペディアから
枝野 幸男(えだの ゆきお、1964年〈昭和39年〉5月31日 - )は、日本の政治家、弁護士。立憲民主党所属の衆議院議員(10期)。
枝野 幸男 えだの ゆきお | |
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生年月日 | 1964年5月31日(60歳) |
出生地 | 日本 栃木県宇都宮市 |
出身校 | 東北大学法学部卒業 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
(日本新党→) (民主の風→) (新党さきがけ→) (旧民主党→) (民主党→) (民進党(前原G) →) (旧立憲民主党→) 立憲民主党(菅G・近藤G) |
称号 |
法学士(東北大学・1987年) 弁護士 |
配偶者 | 枝野和子 |
子女 | 2男[1] |
サイン | |
公式サイト | 枝野幸男オフィシャルサイト |
内閣 |
野田内閣 野田第1次改造内閣 野田第2次改造内閣 野田第3次改造内閣 |
在任期間 | 2011年10月3日 - 2012年12月26日 |
第16代 経済産業大臣 | |
内閣 |
野田内閣 野田第1次改造内閣 野田第2次改造内閣 野田第3次改造内閣 |
在任期間 | 2011年9月12日 - 2012年12月26日 |
内閣 |
鳩山由紀夫内閣 菅直人第2次改造内閣 |
在任期間 |
2010年2月10日 - 2010年6月8日 2011年6月27日 - 2011年9月2日 |
第140代 外務大臣 | |
内閣 | 菅直人第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年3月7日 - 2011年3月9日[注釈 1] |
内閣 | 菅直人第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年1月14日 - 2011年9月2日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (旧埼玉5区→) (比例北関東ブロック→) 埼玉5区 当選回数 10回 (1993年7月19日 - 現職) | |
初代 立憲民主党代表 (2020年9月15日 - 2021年11月30日) | |
旧・立憲民主党代表 (2017年10月3日 - 2020年9月14日) |
旧民主党政策調査会長(第3代)、民主党政策調査会長(第6代)、民主党幹事長(第10代、第15代)、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、内閣官房長官(第79代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、経済産業大臣(第16代)、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)、民進党幹事長(初代)、旧・立憲民主党代表(初代)、立憲民主党代表(初代)を歴任した。
栃木県宇都宮市出身[2]。サラリーマン家庭に生まれる[2]。
祖父が尊敬していた憲政の神様である尾崎行雄にあやかり、男の初孫である枝野には「ゆきお」という名前をつけろと父が祖父から言われていて、字は違うが画数の良いものとして"幸男"と名付けたというのが名前の由来である[2][3]。自身の名前の由来を聞かされたことが影響し、物心がついた頃から政治家を志望していた[4]。
宇都宮市立峰小学校在学時は児童会長を、宇都宮市立陽東中学校在学時は生徒会長を務めた。生徒会長の選挙では劣勢であったが演説後、体育館の2階踊り場からひたすら投票を訴える熱血ぶりを見せ当選した。栃木県立宇都宮高等学校時代は校内の弁論大会で3年連続優勝した。弁論大会では環境問題や労働問題、公務員や日本教職員組合を演題にしていた[5]。また中学・高校と合唱部に所属し、中学2年・3年では2年連続でNHK全国学校音楽コンクールで全国優勝している[2][6]。
高校卒業後は東北大学法学部に進学(同期に森まさこらがいる)。法曹界を目指すことになった。東北大学では憲法学者の小嶋和司のゼミに所属、ここで憲法も法律も道具であるという考え方になる[4]。
1987年、東北大学を卒業し、翌年に24歳で司法試験に合格[2]。司法修習を経て弁護士(登録番号:22259、司法修習43期、第二東京弁護士会)となり、東京の法律事務所に就職した、これについて本人は「サラリーマンより政治家になれる可能性が高いと思ったから」としている[7]。
1992年5月、元熊本県知事の細川護熙が日本新党を結党。同年11月、日本新党は次期衆院選に向けて、国内では初めての候補者公募を行うと発表した[8]。「今や失われかけている理想主義の旗を掲げて」という細川の言葉に惹かれた枝野は応募を決意し、論文を提出[9]。1993年初め、日本新党は約150人の応募者の中から15人ほどを書類選考で選び、枝野もこれを通過。2月21日、二次審査が行われる。4月13日、党は枝野と出版社社長の三浦和夫の2名を合格したと発表。同時に枝野を定数が3から4に増えた旧埼玉5区に、三浦を旧岩手1区に割り当てると発表した[9][10][11]。
しかし活動の仕方を教えてくれる者はおらず、枝野に選挙グッズなどを売り込む業者もいなかったという。「金もないし何もないのだから、朝、街頭演説するしかない。野田佳彦さんのところを見るといいよ」という唯一のアドバイスにしたがって、衆院選に向けて準備を進めていた千葉県議2期目の野田の街頭演説を見学。これが日本新党候補者としての最初の活動となった[8]。
枝野は選挙は早くても同年秋と予想していたが、公募に選ばれてからわずか2か月後の6月18日に衆議院が解散。地盤もカンバンもない選挙区で、何の準備もないまま選挙戦に突入する[3]。手作り選挙を貫き、上田清司(前埼玉県知事)に次ぐ2位で初当選した。
総選挙後、非自民・非共産連立の細川内閣が誕生。商工委員会に所属し、公約に掲げていたPL法立案に携わる[12]。日本新党の党則改正を担当し「細川代表の個人商店」と言われていた党運営の近代化に取り組むが、党事務局の抵抗により失敗する[13]。1994年4月に細川首相が辞任し羽田内閣が発足。首班指名選挙では自民政権は阻止すべきと考えて羽田孜に投票した[12]。羽田内閣発足時に日本新党が新党さきがけとの統一会派を解消して新生党などを含む新会派「改新」に参加したことに反発し、5月に日本新党を離党[14]。院内会派「民主の風」を結成し、続いて新党さきがけ、グループ青雲とともに統一会派「さきがけ・青雲・民主の風」へ合流した。6月「さきがけ・青雲・民主の風」内で態度が分かれた羽田内閣への不信任案には反対を表明した[15]。
1994年6月、自社さ連立の村山内閣が発足。これを機に新党さきがけに合流し、菅直人政策調査会長の下で政策調査会副会長に就く。1996年1月に橋本連立内閣が成立、首班指名では造反すると言われた[16] が村山富市から後継指名を受けた自民党の橋本龍太郎総裁に投票した。橋本がPL法の対象から血液製剤を外すよう抵抗した厚生族のドンであったためで、最後まで悩んだという[12]。連立与党の行政改革プロジェクトチーム座長を務め、1996年5月に国家公務員人事の一括採用や天下り規制を含む公務員制度改革の座長私案を提示した[17]。同年6月に超党派の若手有志議員による政策勉強会「司馬遼太郎哲学研究会」の呼びかけ人となり発足させた[18]。この会は、鳩山新党(旧民主党構想)をにらんだ若手による交流会と見られた。
1995年から薬害エイズ問題を追及し、真相究明と和解を実現して一躍注目された。1995年1月に薬害エイズ裁判の原告弁護団から接触を受け、国の責任を確信。8月、井出正一厚生大臣と被害者の面談を官僚に内密に実現した。10月に裁判所から和解勧告が出されても厚生省が責任を認めなかったため、衆議院厚生委員会で追及。厚生省の当時の対応について説明を求める質問主意書を提出した[12][19]。1996年1月から橋本内閣の厚相として薬害エイズ問題に取り組んだ菅直人をサポートし[20]、"郡司ファイル"発見などの真相究明と国の和解受け入れにつなげた。2月の大臣謝罪の場で司会を務め、7月には安部英元エイズ研究班班長らへの証人喚問で尋問に立った。
1996年旧民主党結成に参加。同年10月の第41回衆議院議員総選挙に埼玉5区からボランティア中心の選挙で挑む[21]。しかし小選挙区では自民現職の福永信彦に敗れ、重複立候補していた比例北関東ブロックから比例復活で再選した。1997年旧民主党政調会長に就任する。同年5月に、社民党出身議員の族議員的体質に批判的な旧民主党内の若手衆議院議員による政治集団「2010年の会」を立ち上げ、代表世話人となる[22]。
1998年1月、旧民主党を含む衆議院野党が統一会派民主友愛太陽国民連合(民友連)を結成し、その一員となる。同1月、民友連の若手衆議院議員による勉強会「ダッシュの会」の発足に参加[23]。野党議員となってから、夫婦別姓の選択を可能にする民法改正案、行政監視院法案、臓器移植法案、児童買春・児童ポルノ禁止法案などを提出。法案の提出数と委員会での発言数は群を抜いていて、「議員立法ブーム」の中心人物となった[24]。
1998年4月民主党結成に参加し、政策調査会筆頭副会長に就任。金融国会では、金融再生法成立に関わる[25]。この時、大蔵官僚や守旧派議員を排し、専門知識を持つ若手政治家の間で協議を重ねて法案が作られたことが、新しい政治の形として注目され、塩崎恭久、石原伸晃らとともに「政策新人類」と呼ばれた[26]。
1999年1月、菅直人に松沢成文が挑む形となった民主党代表選挙では、「論憲」や「郵政三事業・特殊法人の民営化」を掲げる松沢成文の推薦人に名を連ねた[27]。同年9月の代表選では菅直人の選対事務局長を務めた[28]。同10月、鳩山新体制で政策調査会長代理に就任し、次の内閣の内閣官房副長官となった[29]。
2000年の第42回衆議院議員総選挙で当選。2000年11月、民主党の旧さきがけ系を中心とする当選3回以下の若手議員による新勉強会を立ち上げ世話人になる[30]。2001年4月、前年に立ち上げた勉強会の参加者を中心とした勉強会「高朋会」の発足に参加[31]。
2002年、仙谷由人・前原誠司と共に中心メンバーとして政治グループ「凌雲会」を設立。会計責任者に就任。2002年12月の代表選挙で菅直人が党代表に返り咲くと政調会長に就任し、次の内閣の内閣官房長官となった。2003年の第43回衆議院議員総選挙での、民主党のマニフェストを発表した[32]。
2004年、代表が菅直人から岡田克也に代わり、党憲法調査会長に就任。
2005年9月の第44回衆議院議員総選挙では小泉フィーバーで民主党が苦戦の中、自身は牧原秀樹に完勝し、5度目の当選を果たす。岡田の後任を争う代表選では盟友の前原誠司を支援した[33]。同年、政権戦略・報道担当の幹事長代理に就任。この頃より政治グループ「国のかたち研究会」(菅グループ)にも参加するようになる[34][注釈 2]。
2006年に小沢一郎が代表に就任して以降しばらくは党役職から離れることとなる。2008年9月の党代表選で前原誠司、岡田克也らの不出馬を受け、無投票での小沢再選を回避するため自らの立候補を模索するが、推薦人を確保できず断念した。
枝野は2009年8月の第45回衆議院議員総選挙にも当選し、枝野が所属する民主党も大勝し政権は民主党に移る。
2009年9月に鳩山由紀夫内閣が発足すると、当初は閣僚に起用される見方も強まったが[35]、起用はなかった。一部では小沢一郎との確執が原因であるとの憶測も流れた[36]。
10月、内閣府に設置された行政刷新会議の事業仕分けチームの統括役を行政刷新担当大臣の仙谷由人から任命され、事業仕分けでは、予算の編成過程を公開することで国民の注目を集め、鳩山内閣の支持率を下支えした[37]。この仕分けでは原子力施設等防災対策等委託費、原子力施設等防災対策等交付金などの仕分けを行った[38]。
2010年1月に仙谷が国家戦略担当大臣を兼任することとなり、仙谷を補佐するため首相補佐官に起用されることが発表される[39]。しかし正式に任命されることはなく、仙谷の兼務を解く形で行政刷新担当大臣への就任が決まる[40]。
2010年5月末、鳩山内閣が退陣し、後任の代表選挙では前原誠司、岡田克也らと共に菅直人を支持した。6月、民主党幹事長に就任した[41]。7月、幹事長として戦った第22回参議院議員通常選挙では改選前から10議席減の44議席獲得に留まり、参議院での過半数割れを許す。9月の菅直人第1次改造内閣発足に伴い幹事長を退任となり、後任の岡田克也の要請により幹事長代理に就任した[42]。
2011年1月14日に行われた内閣改造により、菅直人第2次改造内閣の内閣官房長官(沖縄・北方対策担当大臣兼任)に就任した[43]。46歳7か月での官房長官就任は、史上2番目の若さであった。3月上旬には、前原誠司外務大臣の辞任に伴い、後任の外務大臣に松本剛明が任命されるまで外務大臣臨時代理を務めた。6月27日からは首相補佐官になった蓮舫の後任として行政刷新担当大臣も兼任することとなった。鳩山内閣が総辞職してから約1年ぶりに行政刷新担当大臣に再登用されることとなる。
官房長官就任から2か月弱後の2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震・福島第一原子力発電所事故が発生。連日ほぼ主としてスポークマンとして働いた。内容を包み隠さず報道させた枝野の手腕は、その精力的な働きぶりから、海外の一部メディアからテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』のジャック・バウアーに喩えられた[44]。この際に枝野が情報の一元化を指示したと報道されており、例えば文部科学省は3月15日夜以降、同原発から半径20 - 30キロメートル範囲内について、同省の観測車両で放射線量を測定した結果を発表していた。しかし記者から健康への影響を問われた際に担当者は「データの評価は行わない。官房長官の指示でコメントできない」と述べている[45]。また、産経新聞記者の阿比留瑠比は枝野が「情報はどこかで一元化して勝手に出さないように」と指示したことにより、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム (SPEEDI) 情報の公開がストップされたとしている[46]。ただし、原子力安全・保安院の解析したSPEEDIの予測結果は枝野の一元化の指示に反し、45件のうち、2件しか官邸に送付されていなかった[47]。この一方で、文部科学省は事故の直後に外務省を通じて試算結果をアメリカ軍には提供していた[48]。
米原子力規制委員会(NRC)が東京電力福島第一原子力発電所事故発生直後の内部文書を公表した。その中に、日本への支援として首相官邸に専門家を常駐させたいと求めたという記録があった[49]。しかし、読売新聞によると、枝野は「協力はありがたくお願いしたい。ただ、官邸の中に入るのは勘弁してほしい」と条件を付けたという[50]。東京電力福島第一原子力発電所3号機原子炉建屋で水素爆発が起きた際、内閣府原子力安全委員会側からの「避難指示を半径20キロから30キロ圏内まで広げるべきです」との提案に対して、枝野らは大規模な避難計画の立案が必要になり、混乱する懸念があったため「30キロに拡大するのはいいが、屋内退避にとどめた方がいい」と反論した[51]。3月12日午前2時の内閣官房長官記者会見で、ベント開放に備えた住民への安全の考慮について「発電所から3キロメートル以内の避難、10キロメートル以内での屋内退避の措置により、住民の皆様の安全は充分に確保されている」と説明した[52][53]。
2011年4月に文部科学省は児童への安全基準として毎時3.8マイクロシーベルト・年換算20ミリシーベルトを示したが、除染対策を自治体に任せ、積極的に動いていなかった[54]。そのため自治体は独自に校庭の表土除去を実施した[55]。この表土除去に関して枝野は、これらの表土は放射性廃棄物と認識しつつ、除去については「文部科学省から示した指針に基づいて対応をいただければ必要はない」との見解を示した[56]。
2011年9月2日、野田内閣発足に伴い内閣官房長官及び行政刷新担当大臣を退任。当初は「一兵卒として政府を支える」と話していたが、同月12日、福島第一原子力発電所事故をめぐる不適切な言動で辞任した鉢呂吉雄の後任として第16代経済産業大臣に就任し、わずか10日で閣内に戻ることとなった[57]。2011年10月3日、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)が加わる[58]。2011年11月、所属する凌雲会の組織改編で前原誠司が会長となり、枝野は幹事長に就任[59]。
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では小選挙区で当選し、7選[60]。
2012年4月13日、定期検査で運転中止中の関西電力大飯原発3、4号機について、関電の安全対策が政府の安全基準を満たしていることを確認し、安全宣言を出した。また大飯原発が再稼働せずに2010年並の猛暑を迎えた場合、関電管内で最大2割程度の電力不足に見舞われ電力料金の値上げにもつながるとして「再稼働の必要性が存在する」と述べた[61]。翌14日、福井県の西川一誠知事との会談で3、4号機の安全性が確保されていることを説明するとともに電力需給面での必要性も挙げ、再稼働への協力を要請した[62]。6月1日、「2基ともフル出力で発電するのは7月を越える」と述べ、関電管内で15%の節電要請が始まる7月2日に間に合わないとの認識を示した[63][64]。6月16日、政府は西川知事の同意を得て再稼働を正式決定[65]。6月18日、関電の八木誠社長に対して再稼働に向けた作業の安全を徹底するよう指示するとともに、再稼働の前提となる安全対策の確認を求めた[66]。7月25日、4号機のフル稼働を受け関電の八木社長が高浜原発3、4号機の再稼働について「優先的に再稼働する方向で、これから国と調整をさせていただきたい」と述べたことに対し「大変不快な発言だ。安全性についてしっかりチェックすることなしに再稼働はあり得ない」と述べ、9月に発足する原子力規制委員会の評価・判断を見守るべきとの考えを示した[67]。8月28日、夏の節電目標を達成して推移している関電管轄内の電力需給について、大飯原発3、4号機が再稼働しなかった場合、最大需要を記録した8月3日[68] の供給余力が3%を割り込む計算だったことを挙げ「大飯原発が再稼働できていなければ、大変厳しい状況だった」と述べた[69]。
9月15日 青森県の三村知事や原子力施設のある市町村の首長らと青森市内で会談し、東日本大震災後に工事を中断した電源開発大間原子力発電所(青森県大間町)と中国電力島根原発3号機(松江市)の建設再開・稼働を事実上、容認する考えを伝えた。原発再稼動の是非が問われる中で両原発の建設が再開されれば、震災後初めての原発建設となる。この会談の中で枝野は「原子炉の設置と工事計画許可が与えられている原発について、経産省の立場として変更は考えていない」と述べ、19日に発足する原子力規制委員会が安全を確認すれば、建設再開・稼働を認める方針を示した[70]。
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で民主党は大敗し下野したが、枝野は第46回衆議院議員総選挙でも小選挙区埼玉5区で当選する[71]。
2014年9月16日、民主党幹事長に就任した。 同年12月の第47回衆議院議員総選挙においては小選挙区埼玉5区で自由民主党牧原秀樹に約3000票差という僅差で当選[72]。
2015年1月民主党代表選挙後、代表に選出された岡田克也の下でも幹事長に留任した。
2016年3月、民主党と維新の党が合流して結成された民進党に参加し、民進党執行部発足後も幹事長に留任した。同年10月、民進党憲法調査会長に就任[73]。
2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明[74][75]。蓮舫の辞任に伴う代表選挙(9月1日実施)に立候補し、前原誠司と「凌雲会」同士での闘いとなるも敗れる。代表選後の党役員人事では代表代行に就任した。
2017年9月28日午後、第48回衆議院議員総選挙に向けた民進党両院議員総会において、前原誠司代表は希望の党への事実上の合流を提案[76][77]。総会の席上で前原は安保法制反対の姿勢を明確にした。前原の提案は了承され、枝野は「それならばみんな希望の党に行ける」と考えた[78]。しかしその約2時間後、希望の党代表の小池百合子は「『希望の党』に入る希望がある方で、安保法制に賛成しなかった方はそもそもアプライ(申し込み)してこないと思う」と発言した[79]。9月29日、小池は定例記者会見で、安保法制の容認と憲法改正などを条件に掲げ、民進党内の左派、リベラル系議員を排除すると明言した[80][81][82]。
9月30日未明、共同通信が「枝野が無所属で出馬する方向で検討に入った。考え方の近い前議員らとの新党結成も視野に入れている」と報道[83]。同日中に民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回る[84][85]。同日夜、枝野、長妻昭、辻元清美、近藤昭一、参議院議員の福山哲郎らは都内のホテルの一室に新党設立を前提として集まり、協議した。会合では、前原に民進党の公認を求めることが確認された[78][86]。
10月1日、新宿駅周辺で安倍政権に反対する市民らが大規模なデモ行進を行った。出発直前、枝野は集合場所の西新宿の公園に姿を見せ、「安倍政権が壊してきた立憲主義、報道の自由、表現の自由、情報公開などを守り、戦う」と演説。会場からは「枝野」コールが巻き起こった[87][88]。デモの参加者はメディアの取材に「必要なのはリベラル派を排除することではない」「枝野さんが新党を作ることになったら応援していきたい」と語った[89]。
同日夕方、民進党本部の役員室で枝野は前原に、合流を望まない議員を民進として公認するよう求めたが、前原は拒んだ。残された道は新党結成か無所属での立候補しかなくなる。同日夜に始まった枝野、長妻、近藤、福山の4人の会合は深夜に及んだ。この頃、新人の立候補予定者たちから受け皿を求める声が出ており、ネットでも「枝野立て」のメッセージが流れ始めていた[78][90]。4人は、翌2日に枝野が一人で結党の記者会見を行うことを決めた。党名は「民主党」「新民主党」「立憲民主党」の3案から枝野が選ぶこととなった。福山はすぐに知人のデザイナーに3案のロゴ作成を依頼した[86]。
党名3案のうち「民主党」は、ネット選対スタッフから強い反対を受けた。「何が起こるか分かっていますか? ネット検索すると、民主党政権時代のネガティブな言葉が並びますよ」。そして党名に「新」が入った政党は長続きしないジンクスがあった。旧民主党から民進党に移行する際に検討された「立憲民主党」は、「憲」の画数の多さを懸念する声があったが、戦前の「立憲政友会」「立憲民政党」などに連なるネーミングは枝野には王道に思えた。[要出典]翌2日朝、枝野は福山に電話で「立憲民主党」で行くことを伝える[86]。
10月2日午前、枝野は連合本部を訪れ、神津里季生会長と会談。希望の党がリベラル派の合流を認めない現状と、新党を結成する方針などを説明した[91]。民進党を離党後、同日夕方、一人だけで記者会見に臨み、「安倍政権の暴走に歯止めをかける役割を果たす」として新党「立憲民主党」を結党すると表明した[92][93][94]。
10月3日午前、長妻は東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に新党設立を届け出て、受理された[95][96]。同日午後、希望の党は衆院選の第1次公認192人を発表。同党が埼玉5区に弁護士の高木秀文を刺客として送り込んだことが明らかとなった[97][98]。日本共産党は立憲民主党への支援・連携を示し、埼玉5区への候補出馬を取り下げた。
10月22日に行われた総選挙で、自民党の牧原、希望の党公認・日本維新の会推薦の高木を破り、9選を果たした(牧原は比例復活)。枝野は党設立表明から20日間で2,757万円の個人献金を集めた。また、2017年分の個人献金の総額は自身の過去分や安倍晋三首相と比べても突出していたことがのちに明らかとなった[99]。
2020年9月4日、立憲民主党・国民民主党・社会保障を立て直す国民会議、無所属フォーラムの2党2グループが合流して結党する新党代表選挙に立候補することを表明[100]。9月10日の投開票では泉健太を下し新代表に選出された[101]。
2021年10月31日投開票の第49回衆議院議員総選挙において自民党の甘利明幹事長や石原伸晃といった大物議員を破るなど一定の成果を上げたものの政権交代を果たせなかった。また、辻元清美副代表や平野博文選挙対策委員長らが落選し、小沢一郎や中村喜四郎といったベテランも相次いで小選挙区で敗れた[102][103]。枝野自身も小選挙区で自民前職の牧原秀樹に約6000票差まで迫られ、日付が変わるまで当確とはならなかった。枝野は、10月31日夜には代表辞任を否定したものの[104]、最終的に党全体の議席も公示前を割り込むなどの惨敗に終わったことから枝野ら党執行部の責任を問う声が噴出した[105]。これを受け、枝野は11月2日開催の党役員会において「私の力不足だ」と陳謝したうえで「新しい体制を整えて来年の参議院選挙などに向かっていかなければならない」と述べ、代表を辞任する意向を表明した。そして10日に召集される特別国会の閉会日をもって辞任し、その後、党員などが参加する形で代表選挙を行う考えを示した[106][注釈 3]。
2021年11月5日、党内グループサンクチュアリに入会し顧問に就任した[108]。
同月12日、枝野の代表辞任が正式に了承され、後任の代表を決める代表選の日程が決定された[109]。
自身の政治的思想について「リベラルであり、保守である」と述べており、この2つの概念は対立しないとの見解を示している[111]。大事にしたい「保守の伝統」としては以下を挙げている。
「和を以て(もって)尊しとなす」。まさに日本の歴史と伝統といったときに、一番古い、そして一貫している日本社会の精神です。 自由を大事にして多様な価値観を認めて、自由放任な自己責任論ではなくて、お互いに支え合うことを大事にする。これはリベラルであると同時に保守なんですよ。 — 枝野幸男、2017年10月9日 インタビューにて[111]
なお、「保守本流」を自認する枝野は、2019年1月に蓮舫や福山哲郎らと共に伊勢神宮への参拝を行っている[112]。一方、元総理の村山富市と面会した際には「先生がお元気なうちに、もう一回リベラルな政権をつくります」と語った[113]。
2017年に立憲民主党を立ち上げた際には、「国家権力が憲法によって制限されることにより、真の民主主義が成り立つ」とする立憲民主主義を掲げ、以下のように述べた。
私たちは、立憲民主党という名前を付けさせていただきました。立憲という言葉は、古めかしい、分かりにくいという意見もあります。しかし、どんな権力でも、憲法によって制約をされる、憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る。この立憲主義というのは、近代社会において、あまりにも当たり前のことだから、特に戦後70年、私たちの国では、あまり言われませんでした。残念ながらというべきかもしれません。ここ数年、立憲主義という言葉をもう一度思い出さなければならない、そんな状況になっている。それが、今の日本です。立憲主義は、確保されなければならないというのは、明治憲法の下でさえ前提でした。少なくとも、大正デモクラシーの頃までの日本では、立憲主義は確保されていました。戦前の主要政党、時期によって色々名前若干変化しているんですが、民政党と政友会という二大政党と言われていたそれぞれ、頭に「立憲」が付いていた。立憲主義は、あの戦前でさえ、ある時期まで前提だったのです。 — 枝野幸男、2017年10月3日 有楽町での演説にて[114]
また、21世紀の政治の対立軸は、左右のイデオロギー対立ではなく、上からのトップダウンか草の根からのボトムアップかであるとし、ボトムアップの政治の実現を訴えている。
2021年2月、「ウィズコロナからゼロコロナへ」を提唱。まずは新型コロナの感染を徹底的に抑え込み、その後に経済活動を再開するとする政策を発表したが、これに対し与党の自民党は「そこまで待てば日本経済は死ぬ」と反論。感染症学者からも「ゼロコロナ政策」支持の声が上がっている。日本政府が採った「ウィズコロナ政策」は、欧米同様の新型コロナウィルスの根絶を目指せば経済損失は莫大となるため、医療崩壊を起こさない程度に感染を抑えて、長く新型コロナと付き合っていくしかないというスタンスである。これに対しゼロコロナ政策では、感染者を一旦ゼロに抑え込めれば、その後、経済を復活させることができるため、将来の利益を考えれば、台湾、ニュージーランドのようにむしろ経済的にも利益になるとする考え方だ。しかし、一度ゼロにすれば、後は自由に経済活動ができるわけではなく抑制策は必要だ。両方の政策にはメリット・デメリットがあり、さらに変異株の出現では戦略の再考を迫られるため、2021年12月現在では、どちらが有利であるかの結論は出ていない[121]。
選択的夫婦別姓制度の実現を初当選時の公約に掲げて以来、推進している[12][122]。選択的夫婦別姓制度導入の民法改正の議員立法案を1998年の第142回通常国会以来、2014年までに4回にわたって筆頭提出者として国会に提出している[123]。自社さ連立政権時代の1996年に法制審が答申した夫婦別姓の選択を認める民法改正案を「子供の姓を婚姻届を出す際に決めるなど改正案には不十分な点もあるが、別姓を法制化する点で評価できる」として政府提案に向けて動いたが[124]、この案は一部自民党議員の反対によって国会提出が見送られ続ける[125]。1997年には「別姓夫婦の子の姓は、出生時に父母が協議して決める」と法制審案より踏み込んだ民法改正案(民主党案)の提案者となり、衆議院法務委員会で論陣を張った[126]。
この問題の反対論者が「日本の歴史と伝統」を持ちだすことについて、「文字に残っているだけでも1500、1600年ある日本の歴史のうち、夫婦が同じ氏を名乗るようになったのは、しょせんこの150年ほどに過ぎない。この150年程の歴史というのは、1500年の歴史の中で急激に変化をしている150年であり、そのわずか150年を振りかざして『歴史と伝統』と言うのはちゃんちゃらおかしい」と批判している[123]。
2013年9月10日、民主党憲法総合調査会長に任命された枝野は憲法9条の改正私案を発表している[127][128]。
改憲私案で追加する条項
9条の21項 我が国に対して急迫不正の武力攻撃がなされ、これを排除するために他に適当な手段がない場合においては、必要最小限の範囲において、我が国単独で、あるいは国際法規に基づき我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を守るために行動する他国と共同して、自衛権を行使することができる。
2項 国際法規に基づき我が国の安全を守るために行動している他国の部隊に対して、急迫不正の武力攻撃がなされ、これを排除するために他の適当な手段がなく、かつ、我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全に影響を及ぼすおそれがある場合においては、必要最小限の範囲で、当該他国と共同して、自衛権を行使することができる。 — 枝野幸男「 憲法九条 私ならこう変える」『文藝春秋』[129]
論説本文では次のようにも記述する。
憲法学者の西修は、次のように述べている。
自衛権行使の要件を明文化した条項を現行の第9条(第9条の1とする)とは別に「第9条の2」「第9条の3」として追加し、憲法解釈の幅を極力狭めることで、無原則な軍拡に歯止めをかける必要性を打ち出している。「時の内閣の判断で憲法解釈を変更できる可能性がある」ことが現行憲法の最大の問題と指摘。解釈変更で集団的自衛権の一部行使容認を目指す安倍政権の姿勢を批判している[132][133]。
私案9条の2第2項は、我国の安全を守っている他国の軍隊が攻撃された場合には、必要最小限の範囲で自衛権を行使できるとする[130]。『通販生活』の憲法特集「私はこう考える」[134] のなかで枝野自身が述べ、また憲法学者の長谷部恭男も指摘している[135] とおり、従来(第2次安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認する以前)の「個別的自衛権」の範囲で説明できるものであるとされる。
前述の憲法学者長谷部恭男は、次のように述べている[135]。
枝野氏の改憲案は、過去に内閣法制局長官などにより政府見解などで示されてきた考え方のとおりで、従来の政府解釈を憲法に明文化しようとしたもの。『駆けつけ警護』も含め、すべて個別的自衛権の行使として説明できる。一方、安倍首相の行った『解釈改憲』では、集団的自衛権の行使について自衛隊が『地球の裏側』まで行って武力行使できると国会で答弁するなど、どこまでも範囲が拡大する余地を残した。両者はまったく違う考え方です。 — 長谷部恭男
枝野の私案は、その解釈が誤解であろうとも、大手新聞社の論説においても「集団的自衛権を容認する憲法改正案」として、自民党の改憲案と同様の考えと受け止められてしまうことがある[136]。それに対して枝野本人は、記事を名指しで「私のかつての私案は集団的自衛権の行使を容認していません。[137]」と否定しており、また憲法学の観点からは長谷部恭男など、枝野と一致する見解が見られる[135] ことは、上述のとおりである。
枝野は『通販生活』の憲法特集「私はこう考える」[134] のなかで、安倍晋三政権の解釈改憲による集団的自衛権行使容認を「……憲法によって縛られている側の政府が、恣意的に従来の憲法解釈と整合性のつかないような解釈に変更することができるのであれば、それは立憲主義の明確な否定です。決して許されることではありません。」とした上で、「現行憲法の最大の問題点は、自衛権などを規定した条文がなく、すべてが解釈にゆだねられていることです。」とし、「恣意的に変更可能な解釈ではなく、歯止めを「明文化」すること」に言及した(枝野曰く「憲法九条第三の道」)。そして、自らの改憲私案については「専守防衛を基本として、個別的自衛権で線を引く。」とする。枝野の改憲案は、現行の第9条(1項及び2項)には手をつけずそのまま「第9条の1」とし、「第9条の2」「第9条の3」を置いて、安倍政権より過去の憲法解釈が積み上げてきた専守防衛の範囲と自衛権の制約を明文化するものである。
条文の「解釈の幅」を狭くすればするほど、公権力がそれを無視して暴走するリスクを小さくできます。これからも日本を軍事大国にしない、侵略戦争をさせないと志向するのであれば、歯止めをしっかりと明文化する必要があるのではないかと思います。 — 枝野幸男、『通販生活』、「私はこう考える(1)」
枝野は専守防衛と平和主義を維持する立場であり、9条改正もそれをより強化するものであるならば賛成するとしてきた[138]。第3次安倍内閣による安保法制は「海外で戦争できる法律」(専守防衛を逸脱するもの)であり憲法違反だとし、それを追認することになる自衛隊加憲論(安倍内閣が検討している9条改正案)を批判、また反対を表明した上で、同法制が「明確に憲法違反だとわかる」ような憲法改正案が示されるならば、それは否定しないとした[139]。
現状が海外で戦争できる状況になっているので、同時に『海外で戦争ができない』『日本の領土・領域が攻められない限りは戦争ができない』と同時に明記しなければ、国民の皆さんが思っている専守防衛の自衛隊とは違ってしまう — 枝野幸男、ライブドアニュース「枝野幸男氏 9条の自衛隊明記に持論「専守防衛の自衛隊とは違ってしまう」」、2017年10月24日、第6段落目
そのような立場から、枝野は日本共産党などいわゆる護憲派(改憲そのものに反対する勢力)とも協力し、護憲派の集会でも安倍内閣の憲法「改悪」への反対と、立憲主義の擁護を訴えている[140]。
野党民主党時代の2004年の憲法調査会の時点で、日本国憲法第7条(国事行為)第3号を根拠とした7条解散について、根拠とするには要件が不十分であると指摘し、他の国事行為と同様、法規上に規定すべきとして整備・改善の必要性を提起している[141]。2017年、日本と同じ「議院内閣制」をとる先進国の英議会任期固定法や独連邦共和国基本法を参考に、憲法7条を根拠としてきた首相の解散権を制約する必要性を訴えている[142][143]。参考とされる英独のうち、イギリスでは、内閣不信任決議が可決された際に首相が辞職ではなく解散を決定する場合、または、議員の2/3の賛成を必要とする「議会の自主解散」が行われる場合のどちらかでしか解散はできない。またドイツでは、次の首相の指名の上で内閣不信任決議が可決された際に首相が解散を決定する場合、または、首相提出の信任決議が否決された際に首相が解散を決定する場合のどちらかでしか解散はできない[144]。憲法学者の木村草太は、イギリスでこのように解散権が制限された経緯について、首相による自由な解散権は(政府)与党の都合(与党の有利なタイミング)に合わせて行う選挙を正当化する制度ではないかという旨の批判があったと解説し、解散権の制約は特定勢力の都合を選挙に介入させないための方法であるとしている[145]。
1998年の金融危機では、公的資金は預金者保護と健全な借り手保護に限定すべきだとして、破綻前処理に一貫して反対した[162]。
どんな状況になっても複数の選択肢(外交カード)を確保できるようにすることが必要だとし、イラク戦争開戦時に日本にアメリカ無条件支持しか選択肢が残らなかった外交プロセスを批判している[174]。「中国の体制が中長期的に継続するとは思っていません」とし[147]、中国全体が民主化してアメリカの東アジアにおける軍事プレゼンスが必要なくなったときを見据えて、朝鮮半島、台湾、ASEANなどの東アジアと経済統合を進めて米中と対抗できるようにすべきだとしている[175]。
対中強硬派として知られる。1995年に北京で開かれた世界女性会議に参加した際には、中国の核実験に反対する横断幕を持ち込んで治安当局に没収され、会議場で抗議文を紙に大書きして当局に制止されるなどした[176]。
2010年10月2日、さいたま市での講演で尖閣諸島中国漁船衝突事件を踏まえて、「中国には法治主義が通用しないという前提で付き合わないといけない。そのような国と経済的パートナーシップを組む企業はお人好しだ。カントリーリスクを含めて、自己責任で経営に当たってもらわなければ困る」、「中国と日本は明らかに政治体制が違い、米国や韓国との関係同様に信頼関係をもって協力して物事を進めることを期待する方がおかしい」、「悪しき隣人でも隣人だ。それなりにつきあいをしていかないといけない」などを主旨とすることを語った[177][178]。2011年2月10日、衆院予算委員会の公明党の佐藤茂樹への答弁で「直接にどこかの国をあしき隣人と言ったものではない」「よい隣人であろうと、あしき隣人であろうと、隣人とはよく付き合っていかざるを得ないという一般的なことを申し上げた。(日中両国が)お互いによき隣人となれるよう努力したい」と述べた[179]。
民主党日本・台湾友好議員連盟に所属し[180]、たびたび訪台して台湾の政治家と交流している[147]、代表的な親台派議員の一人である。元台湾総統の李登輝を尊敬する人に挙げていて、2010年の行政刷新担当大臣への就任会見でも言及している[181]。 2020年7月30日、李登輝が死去した際には、「心より哀悼の意を表します。『尊敬する政治家は誰ですか?』と良く聞かれますが、直接お目にかかった先輩の中では迷うことなく李登輝先生です。軍事独裁的体制を平和的にアジアで最も民主的な体制に移行させた政治力は、20世紀で最も素晴らしい政治家の一人だと思います。生前の先生に何度もお目にかかることができたことは、私の掛け替えのない財産となっています。かつて台北で総統在任中の先生にお目にかかった際、同僚議員が「政治とは?」と尋ねたのに対して、「政治とは時間の関数」との答えをいただきました。あれから約20年、その言葉の深い意味を痛感し、私の座右の銘となっています。」と追悼の意を込めた文章をTwitterに投稿した[182]。
チベット問題にも取り組んでおり、チベット亡命政府を支持している[183]。2005年に超党派の国会議員で構成されるチベット問題を考える議員連盟の代表に就任[184]。2008年には、チベット弾圧が悪化するなら胡錦濤主席の訪日を歓迎できない、とするチベット議連の声明文を起草した[185]。2009年に議連代表を退き、現在は名誉顧問を務めている。
ハト派を自認するが現実主義者であり、有事法制の必要性を訴えている[174]。左右の極端な意見には批判的で、「たしかに安全保障政策などで、横路(孝弘)さんや横路さんの側近の意見があまりにもナンセンスで問題外のため、いらつくこともたびたびあります」と述べたこともある[186]。
沖縄県の普天間基地移設問題を巡っては、官房長官在任時は「(日米合意は)国と国との約束であり、また、様々な経緯があっての合意」「(合意を)しっかりふまえて対応していく考えに変更はない」[187]「政府の方針に基づいて、同時に沖縄の皆さんの思いをどう受け止めていくことができるのか努力しなければならない」と述べ、あくまでも同県名護市辺野古周辺に移設するとした日米合意を進める意向を示した[188]。立憲民主党の結党後は「辺野古に新たな基地を建設しない解決策に向け、米政府と再交渉すべきだ。沖縄の分断と対立を生む建設を強行し続けることは、あまりにも無理がある」と述べ事実上反対に転じ、民主党政権時代との整合性については「立民は新しい政党だ。過去の教訓を踏まえて、党内で移設問題を慎重に検証、議論してきた」と説明した[189]。
2021年7月1日の中国共産党の結党100周年記念に対し、祝電を送った[190][191]。
2021年10月24日に放送されたNHKの「日曜討論」で、防衛費の増額に関し「時代遅れになった戦闘機を購入しているのではないか」と述べ、精査が必要であると訴えた[192]。軍事ライターであるJSFによると、F-35は2021年時点で最新鋭と呼ばれるステルス戦闘機であり、スイスが最も高い評価を与えて次期戦闘機に採用した機種であって[193]、時代遅れという枝野の発言は間違いであると指摘されている[194]。
警察権力が拡大しすぎないよう行動しており、警察へのチェック機構の必要性を訴えている。1995年には、オウム真理教事件で警察が微罪による別件逮捕を繰り返したことについて予算委員会で指摘し、「もしも安易に逮捕することを警察が当たり前という気持ちになったら、戦前の警察国家に向かっていく危惧を覚える」と発言した[195]。
1999年の通信傍受法制定のときには、濫用防止のための制度的な歯止めが不十分と考え[196]、盗聴には第三者の立会人と本人への通知が不可欠だと訴えた[197]。しかし、法務委員会で質疑に立つ前に、自自公連立政権に審議時間の与野党合意を破られ強行採決された[198]。
自民党や公明党などが推し進める、漫画やアニメ、行き過ぎた児童ポルノなどの表現規制法案について、長らく規制反対の立場から、恣意的な解釈が可能となる法案の問題点を審議にて追及し、表現の自由に尽力している[208][209][210][210][211]。
2005年6月にさいたま市で開かれた埼玉平和センターの第17回部落解放県共闘総会で枝野は副議長に選ばれている[212]。
国旗国歌法に反対。ただし、その理由については、国旗は国際法との兼ね合いで明文化することに意味があり、反対ではないこと、国歌については「多くの国民が国歌として認めていること」こそが重要であり、政治的思惑で左右されかねない明文法とするのではなく、慣習法の世界で対応することが適切だとしており[213]、日の丸と君が代を法的に国旗・国歌と位置付けること自体には賛成している。
2014年11月、自民党の政策を批判し、「早く解散していただけるなら、こんなありがたいことはない」[214] と解散の要求を行った。しかし、実際に解散がなされると今度は「身勝手な解散」と批判した[215]。
2016年2月26日、民主党比例北海道選出で衆院議員の鈴木貴子が離党届を提出した際、枝野は「(鈴木は)小選挙区では当選せずに、比例代表で救われているわけなので、これは民主党の党名を書いた皆さんの議席であるので、離党されるのであればお返しをいただきたい」「重大な反党行為だ」と指摘し除名処分とすることを検討するとした[217][218]。
但し、立憲民主党代表時代の2018年10月以降、比例東海地区ブロック選出の日吉雄太、青山雅幸両議員が離党届を提出した際には除名を見送り離党届を受理することとなった(なお、東海地区ブロックにおける立憲民主党候補は、名簿登載者全員が当選しており、2名が議員辞職を行ったとしても繰り上げ当選者が出る事はない)。
ジャーナリストの鈴木エイトが作成した「旧統一教会関連団体と関係があった現職国会議員168人」によれば、旧統一教会関連団体との関係について、2006年に教団系メディアの『世界日報』に座談記事が掲載されていたとされる[231]。立憲民主党もこれを認めている[232]。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
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当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 7月18日 | 29 | 旧埼玉5区 | 日本新党 | 9万6926票 | 16.11% | 4 | 2/10 | / |
比当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 32 | 比例北関東(埼玉5区) | 旧民主党 | 5万1425票 | 25.17% | 21 | 3/5 | 1/4 |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 36 | 埼玉5区 | 民主党 | 10万6711票 | 45.52% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 39 | 埼玉5区 | 民主党 | 9万5626票 | 56.41% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 9月11日 | 41 | 埼玉5区 | 民主党 | 10万3014票 | 48.68% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 8月30日 | 45 | 埼玉5区 | 民主党 | 13万920票 | 59.15% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 48 | 埼玉5区 | 民主党 | 9万3585票 | 45.37% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 50 | 埼玉5区 | 民主党 | 9万30票 | 46.09% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 53 | 埼玉5区 | 旧立憲民主党 | 11万9091票 | 57.40% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第49回衆議院議員総選挙 | 2021年10月31日 | 57 | 埼玉5区 | 立憲民主党 | 11万3615票 | 51.38% | 1 | 1/2 | / |
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