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松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年(明治8年)11月15日[1] - 1949年(昭和24年)6月5日[2])は、明治から昭和時代前期の統監府警視[1]、朝鮮総督府尹、大邱府尹、平壌府尹[1]、政治家。山口県下関市長[3][4]。下関商工会議所顧問[3][4][5]。
山口県阿武郡奈古村(現・阿武町奈古)出身[1][2]。大山忠左衛門の三男[5]、大山彦五郎の弟で、松井豊吉の養子となり後分家する[4]。1903年(明治36年)6月、山口県警部[1]。1906年(明治39年)8月、朝鮮釜山理事庁警部[1]。
1909年(明治42年)、朝鮮統監府警視[1]。朝鮮木浦警察署長[6]、北部警察署長、京城鐘路警察署長などを務める[4]。1918年(大正7年)8月、朝鮮総督府尹、大邱府尹[1]。
ついで、1924年(大正13年)12月に平壌府尹[1]。1929年(昭和4年)12月に従四位に叙し、依願免官[1]。その後、1931年(昭和6年)1月27日、山口県下関市長に就任した[1]。日本赤十字社山口支部下関委員長、愛国婦人会山口県支部下関市幹事部顧問、下関商工会議所顧問、下関市聯合青年団長、同水産会顧問、同農会顧問、都市計画山口地方委員会委員などを兼任した[1]。
下関市長は1946年(昭和21年)まで務め、その後公職追放となった[7]。追放中の1949年(昭和24年)6月5日、脳溢血により死去した[2]。
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