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東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州(ひがしスラヴォニア・バラニャおよびにしスレム・セルビアじんじちしゅう、セルビア語: САО Источна Славонија, Барања и Западни Срем / SAO Istočna Slavonija, Baranja i Zapadni Srem)は、クロアチア領内に成立したセルビア人による自治地域。元は1991年にクライナ・セルビア人共和国を構成した州のひとつであった。この自治州は、地理的に東スラヴォニア、バラニャ、西スレム(シルミア、あるいはスリイェムとも)を含んでいる。
クライナ・セルビア人共和国同様、東スラヴォニア自治州はセルビア人議会によって設置が決められ、東スラヴォニアとバラニャ、西スレムを代表するものとされた。クロアチアとスロベニアの独立宣言に対抗して、1991年6月25日に独立を宣言した。翌6月26日にはゴラン・ハジッチ(Goran Hadžić)がその初代大統領であると宣言された。
地域はクライナ・セルビア人共和国の一部として1991年から1995年まで存続した。1995年にクライナの主要部分がクロアチア軍の手に落ちた後、地域は国際連合の国際連合東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム暫定統治機構(UNTAES)の監督下におかれ、1998年に平和裏にクロアチアに統合されるまで続いた。セルビア人からは沿ドナウ・クライナ(Podunavska Krajina)、クロアチア人からは沿ドナウ・クロアチア(Croatian Podunavlje)とも呼ばれたが、一般にはスレム・バラニャ州(Srem-Baranja Oblast)と呼ばれた。
地域は多民族が入り混じっていた。戦争が始まる前、この地域の総人口は192,163人であり、47%にあたる90,454人はクロアチア人、32%にあたる61,492人はセルビア人、21%にあたる40,217人はその他(マジャル人、ロマ、ドイツ人、ルシン人、スロバキア人など)であった。
戦争中、109,500人のセルビア人がこの地域に居住していた。
地域の主な都市はヴコヴァル、ベリ・マナスティル(Beli Manastir)であった。その他にはボロヴォ(Borovo)、ダルダ(Darda)、ダリ(Dalj)、イロク(Ilok)などであった。
自治州が存続していた間、地域には5つの基礎自治体があった。バラニャ地方のベリ・マナスティル、東スラヴォニア地方のダリおよびテニャ(Tenja)、西スレム地方のヴコヴァルおよびミルコヴツィ(Mirkovci)があった。
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