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1115-1183, 平安時代末期の天台僧。久我顕通の子。法印、天台座主、大僧正。勅撰集『千載和歌集』に1首入集 ウィキペディアから
比叡山の弁覚法印から顕教・密教を学び、天台座主・最雲法親王の法を継いだ。仁安元年(1166年)、僧正に任じられ、翌仁安2年(1167年)、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を務めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。治承元年(1177年)、延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する(白山事件)。
治承3年(1179年)、治承三年の政変で院政が停止されると座主職に再任され、寿永元年(1182年)には大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183年)、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた[注釈 2]。義仲は差し出された明雲の首を「そんなものが何だ」と言って西洞院川に投げ捨てたという。在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初であった。同合戦で殺害された円恵法親王の遺骨とともに高野山へ運ばれる。
後任の天台座主には義仲の追従者だった俊堯が置かれた。
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