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戦国時代の武将。信濃諏訪藩(高島藩)初代藩主。従五位下、織部正。子に日根野高当(高富)=吉重-高英-高重=則最=高豊-高勝 ウィキペディアから
日根野 高吉(ひねの たかよし)は、戦国時代の武将。美濃国出身[1][2]。織田信長、豊臣秀吉に仕えた[3]。信濃国諏訪藩(高島藩)の初代藩主。官位は従五位下織部正[3]。正室は、戸田忠成の娘[3]。
日根野弘就の長男として生まれる[3]。母は某氏[3]。弟に、吉時、日根弘正、弘勝がいる[3]。妹は浅野氏次の妻となった[3]。はじめ父に従い信長に仕え、秀吉に仕える。
小田原征伐において山中城を攻略した戦功により、天正18年(1590年)7月13日、近江国愛知郡平松城から信濃国諏訪郡2万7000石に移封となった[1][4][2]。
日根野氏により、後述する高島城築城の他、城下町の上諏訪形成、石高制による検地の実施、逃散農民の呼び戻しなど、中央の豊臣政権の方針が反映されることになり、近世における高島藩政の基礎が整えられた[1]。
天正20年(1592年)1月、朝鮮出兵(壬辰倭乱)では、300人を率いて肥前国名護屋に駐屯した[5][4][注 1]。
同年、高島城の築城に着手し、慶長3年(1598年)、完成した[6][7]。伏見城の築城でも功を挙げている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては東軍に与していたが、本戦直前の6月26日、高島で病死した[5][3]。慈雲寺に葬られた[3][5][8][注 2]。享年62[2]。法名は、鑑照院殿鉄叟玄心大居士[5]。
慶安2年(1649年)、高吉の五十回忌に際し、吉明は封地の豊後国府内から慈雲寺を訪れ、同寺の墓地に供養の五輪塔を建てた[10][11]。塔には「
この供養塔は、1970年11月17日、「日根野織部正高吉供養塔」として下諏訪町の文化財(彫刻)として指定された[12][11]。
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