日本の化粧文化史
ウィキペディア フリーな encyclopedia
日本の化粧文化史(にほん の けしょうぶんかし)では、日本における化粧にまつわる文化史について解説する。なお本記事での「化粧」とは、広義の「顔を中心とした装い」[1](白粉・口紅などの化粧品を塗る狭義の化粧(メイクアップ)のほか、洗顔・スキンケア・アンチエイジングなどの美容、眉などの毛髪処理、入墨・抜歯などの身体加工)とする。
人類が化粧をするのは、美しくなりたいという本能的な要求のほか、目や肌の保護といった実用的な機能、特定の集団への帰属・身分や階級の表示、年齢や未既婚の表示、宗教・呪術的な目的などが複雑に絡み合っている[2]。そのような意味で、化粧は社会を映す鏡でもある[3]。
日本における化粧は、先史時代に行われていた赤の化粧までさかのぼる[4]。飛鳥時代に大陸文化が伝来するとその影響を受けて化粧も大陸風に様変わりした[3]。平安時代中期になると国風文化とともに化粧も独自の発展を遂げた。この頃に成立した白(白粉)・赤(口紅・頬紅)・黒(お歯黒・眉墨)の三色を基本とした伝統的な化粧は、身分などを区別する社会的機能を負いつつ江戸時代まで継続する[5][3]。近代には政府による近代化政策の一環として化粧も欧化が推進され、また科学技術の発展と共に近代化粧品が生産されるようになった。とくに庶民においては太平洋戦争後に急激に欧米化が進み、平成時代まで至っている[3]。とくに大きな目を好む美意識には欧米化の影響が強く見られるが[6]、いっぽうでは伝統的な美肌へのこだわりも健在だと指摘されている[3]。