新田荘遺跡(にったのしょういせき)は、上野国新田郡(群馬県太田市)にあった荘園新田荘に関わる遺跡。荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及び、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなる[1]。『延喜式』には上野国新田駅、『和名類聚抄』では新田郡駅家郷と記されている。中世武士団新田氏一族の根源地として成立し、長楽寺文書、正木文書によって文献史料の裏付けを可能とする東国の中世荘園として稀有な例である。2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
この後、源義国は長子・新田義重とともに上野国新田郡の開発を開始する。源義国・新田義重父子の開発過程で近隣の藤姓足利氏との間で相論が活発化していく。
二月騒動を契機として新田荘内に得宗領が拡大していった。
- 1277年(建治3年)- 世良田頼氏の娘「尼浄院」、上江田郷内堂垣内在家・田を長楽寺へ寄進。
- 1291年(正応4年)- 鎌倉幕府、鳥山時成の遺領相続を妻「尼念空」に認める。
- 1318年(文保2年)- 由良景長の妻紀氏に鎌倉幕府は上野国新田荘の田地を領せしむ。新田義貞が新田氏本宗家家督相続する。新田義貞・村田頼親が所領を長楽寺へ売却。
- 1322年(元亨2年)- 岩松政経・大舘宗氏が新田荘田嶋郷の用水相論。「尼浄院」、亡父忌日料として南女塚村内在家を長楽寺へ寄進。
- 1324年(元亨4年)- 新田義貞、所領を小此木盛光妻紀氏へ売却。
- 1328年(嘉暦3年)- 世良田満義、新田荘小角田村の田地等を長楽寺へ寄進。
- 1332年(元弘3年)- 大谷道海、火災にて焼失した長楽寺を再建。
- 1333年(元弘3年)- 新田義貞が倒幕の挙兵。江田行義、所領を長楽寺へ寄進。
- 1334年(建武元年)- 妙連(土用王御前)[6]、所領を養子・岩松直国[7]へ譲渡。
- 1335年(建武2年)- 足利尊氏、東国にある新田氏一族の所領を没収。
- 1338年(暦応元年)- 足利尊氏、新田氏の旧領を長楽寺へ寄進。足利尊氏、新田荘八木沼郷等を安養寺殿(新田義貞)追善料所として長楽寺へ寄進。
- 1347年(貞和3年)- 岩松直国、新田荘由良郷地頭職に補任される。
- 1350年(観応元年)- 室町幕府、上杉憲顕に命じ、新田荘内の世良田右京亮・桃井直常らの旧領を岩松直国に与える。
- 1352年(観応3年)- 新田義興、長楽寺に兵士の乱入狼藉するを停止する。足利尊氏、長楽寺の要請により、寺領安堵の署判を与える。
- 1355年(文和4年)- 村田頼氏、下江田郷内在家・田畠を売却。
- 1364年(貞治3年)- 足利基氏、世良田義政跡の新田荘江田郷を岩松直国に与える。
- 1365年(貞治4年)- 足利義詮、岩松直国に本領安堵の御教書を与える。
- 1381年(永徳元年)- 世良田憲政、所領を長楽寺へ寄進。
- 1411年(応永18年)- 鎌倉府、岩松満国に新田荘当年年貢百貫文を沙汰させる。
南北朝の動乱を経て、新田氏本宗家の滅亡後、新田氏惣領職は岩松氏[8]に、新田荘領家職を鎌倉府に与えられる。岩松氏は守護職とほぼ同様の権力[9]を新田郡に有したと考えられる。
この後、横瀬景繁の子・横瀬泰繁が岩松昌純を殺害する下克上を行い、由良氏(横瀬氏)は戦国大名化する。
- 1157年の「空閑の郷々」19郷[10]
- 1170年の荘域[13]
- 北限:勢多郡新里(桐生市/鹿田山)須永御厨との境界
- 南限:武蔵国榛沢郡横瀬(埼玉県深谷市/利根川・広瀬川の流路・小山川左岸:近世以前の利根川旧河道)
- 東限:飯塚(太田市/金山丘陵、蛇川・八瀬川の流路)薗田御厨・梁田御厨・藤姓足利荘・源姓足利荘との境界
- 西限:佐位郡木島(伊勢崎市/早川の流路)淵名荘との境界
新田氏遺構群のうち下記の11箇所が新田荘遺跡として国の史跡に指定されている。
- 円福寺境内(太田市別所町)
- 十二所神社境内(太田市別所町)
- 総持寺境内(太田市世良田町)
- 長楽寺境内(太田市世良田町)
- 東照宮境内(太田市世良田町)
- 明王院境内(太田市安養寺町)
- 生品神社境内(太田市新田市野井町)
- 反町館跡(太田市新田反町)
- 江田館跡(太田市新田上江田町)
- 重殿水源(太田市新田市野井町)
- 矢太神水源(太田市新田大根町)
惣領職に内包される新田氏一族は本宗系・世良田系・岩松系などであり、新田荘外に本拠を構え、独自に御家人役を勤仕し早期に独立した里見氏、山名氏は含まれないとする。 この分担は、世良田氏が鎌倉で勤仕し、岩松氏が在地で領導していたとされる。
新田荘に残存した新田氏一族は岩松氏惣領家を中心に再編されたと考えられる。
「『新田義重譲状』正木文書2」新田義重は子・世良田義季とその母に譲る。大部分は世良田氏に伝領
世良田氏庶流の得川頼有(下野守)が、得川・横瀬・下江田などを岩松経兼に嫁した娘「女子源氏」を通じて岩松政経(下野太郎)に譲渡した。
1170年(嘉応2年)『上野新田荘嘉応年中目録』
(1455年(享徳4年)「新田荘田畠在家注文」(正木文書83)岩松持国が足利成氏に新田荘支配の正統性を主張するために提出した嘉応2年当時の荘域を示す史料) 注釈に『さかいにとらる』とあり、1455年(享徳4年)当時、近隣に押妨されていた
注釈に『さかいに半ハとらる』とあり、1455年(享徳4年)当時、近隣に押妨されていた