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永井荷風の日記 ウィキペディアから
『断腸亭日乗』(だんちょうていにちじょう)は、永井荷風の日記。1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相とそれらに対する批判を、詩人の季節感と共に綴り、読み物としても、近代史の資料(敗戦日記)としても、荷風最大の傑作とする見方もある。
1917年、37歳時点での荷風は、すでに文名を確立した新進作家であった。前年に慶應義塾大学教授を辞め、かつては両親弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現、新宿区余丁町)に戻り、邸内の一隅を(腸に持病のある故をもって)『断腸亭』と名付けた、自らを断腸亭主人と称した。庭先に秋海棠を植えた。それの別名も『断腸花』である。また『日乗』とは日記の別名である。
1917年分を第一巻、1918年分を第二巻……とし、和紙に墨書して綴じたが、敗戦の1945年秋以降は仮綴じとなり、さらに1947年以降は大学ノートでのペン書きとなった。
戦後公刊に至るまで、(戦前は)当局の筆禍を怖れ、知友にも見せなかった。製本の師に対してさえ、そうだった[1]。荷風が日記を付けているとの噂がもれ、危険な記述を消し、下駄箱に隠して外出するなど用心したが、やがてその怯懦を恥じて廃した[2]。
名文と評される漢文調で綴られている。その日の天候、家事、来客、出版の商談、外出、食事、交友、散策先の状況、巷の風景、風俗、世相、噂、物価、体制批判、読書、読後感などを記し、時に筆書きのスケッチ・地図も添える。交友の相手には女性も、外出先には遊郭・赤線地帯もあり、馴染んだ女性の名を列記してもいる[3]。また、人の好悪が激しかったため、敵視していた菊池寛など気に入らない作家たちへの罵倒の言葉も綴られている[4]。
晩年まで読書を怠らず、江戸後期の版本とフランス語原書の文学作品を読んだ記述が多数ある。対人関係(佐藤春夫・平井呈一など)に潤色があるとされるが、太平洋戦争末期の破滅的な生活風俗と荒み行く人心の記録は、『後車の戒』(『後世への戒め』)としても読みうる。『断腸亭日乗の頂点は、1945年3月9日、自宅の偏奇館焼亡の記述』とする論者が多い。
東京大空襲後の罹災の逃避行でも、日記原稿を携え記述を続けた。1949年頃までは、読者を引き込ませる中身があるが、以降(とりわけ後半の数年間)は、没する前日まで、ほぼ一日一行の記述のみになっている。
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