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我国将来の建築様式を如何にすべきや
1910年に建築学会が行った討論会 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
我国将来の建築様式を如何にすべきや[注釈 1](わがくにしょうらいのけんちくようしきをいかにすべきや)は、1910年(明治43年)、日本の「建築学会」(現:日本建築学会)が2度にわたり主催した討論会である。その議題から「様式論争」とも呼ばれる[1]。
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建築学会が発足して以来はじめての討論会であるこの論争は[2]、帝国議会議事堂建設のためのコンペティションを実現させるためのロビー活動の一環としておこなわれたものである。議院建築の様式にふさわしい「国民的様式」とはいかなるものかという問題をひとつの切り口としつつ、よりひろく日本建築の将来について論じることがその目的であった。2回の討論会にはいずれも100人を超える人員が集まり[3]、喧々囂々の議論がおこなわれた。しかし、結果的に議論は「意見発表会」の域を出ないものとなり、学会としてのまとまった結論を見出すことはできなかった。また、のちに建造されることとなる議事堂建築に、こうした議論が生かされることもなく、同討論会は当初の目的を果たすという意味においてはまったく失敗したものであった。
一方で、様式論争でかわされた議論は、当時の建築界の思想思潮をつよく反映するものであり、日本建築史においては「ただ西洋を模倣するのみにとどまっていた日本の建築家が『建築論』を志向しはじめた時代の象徴的出来事」として評価されている。