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618年(義寧2年)、隋の巴東郡臨江県に臨州が置かれた。臨江県が分割されて豊都県が置かれた。619年(武徳2年)、唐により南浦州武寧県が分割されて南賓県が置かれ、臨江県が分割されて清水県が置かれ、この2県が臨州に帰属した。625年(武徳8年)、南浦州の廃止にともない、武寧県が臨州に帰属したが、この年のうちにまた浦州にもどされた。626年(武徳9年)、隣州の廃止により墊江県が臨州に帰属した。634年(貞観8年)、臨州は忠州と改称された。742年(天宝元年)、忠州は南賓郡と改称され、清水県は桂渓県と改称された。758年(乾元元年)、南賓郡は忠州の称にもどされた。忠州は山南東道に属し、臨江・豊都・南賓・墊江・桂渓の5県を管轄した[1]。
北宋のとき、忠州は臨江・墊江・南賓の3県を管轄した。1265年(咸淳元年)、南宋により忠州は咸淳府に昇格した。咸淳府は夔州路に属し、臨江・墊江・南賓・豊都・竜渠の5県を管轄した[2]。
元により咸淳府は忠州の称にもどされた。忠州は重慶路に属し、臨江・南賓・豊都の3県を管轄した[3]。
明のとき、忠州は重慶府に属し、酆都・墊江の2県を管轄した[4]。
1734年(雍正12年)、清により忠州は直隷州に昇格した。忠州直隷州は四川省に属し、酆都・墊江・梁山の3県を管轄した[5]。
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