崔溥
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崔溥(チェ・ブ、최부、景泰5年(1454年)- 弘治17年10月24日[2](1504年11月30日))は、李氏朝鮮初中期の官僚である。士林派の中心人物の一人。文科及第により任官。『東国通鑑』の編纂などに携わる。成宗19年(弘治元年/1488年)閏正月、任地の済州島からの帰路、嵐により難破し、中国(当時は明朝)の海岸に流れ着いた。同年6月までの間、中国大陸を大運河沿いに北上して朝鮮に戻った。燕山君の治世に起きた戊午士禍に巻き込まれて宮廷から追放され、甲子士禍により刑死。中宗反正後に名誉が回復された。
中国で経験した旅の詳細を綴った崔溥の旅行記『錦南漂海録』は、16世紀に朝鮮と日本で公刊された。『錦南漂海録』は現代の歴史研究者にとっても、15世紀の中国文化をその周縁にいた者の価値観で捉え、当時の都市や地方のさまざまな情報を提供してくれることから、貴重な史料となっている。崔溥の紀行の中に見られる彼の態度や意見は、15世紀朝鮮の儒教知識人の立場・観点に依って立つものであり、中華文明こそが朝鮮の文化にとって替わるべきであると考えるものである。また、都市やそこに生きる人々の習俗、料理、大運河沿いに行われる水上交易についての記述からは、15世紀の中国の日常生活や、南北でかなり異なっていた文化の違いについてうかがい知ることができる。