島津義久
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島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。
概要 凡例島津 義久, 時代 ...
島津義久像(東京芸術大学大学美術館蔵) | |
時代 | 戦国時代から安土桃山時代 |
生誕 | 天文2年2月9日(1533年3月4日) |
死没 | 慶長16年1月21日(1611年3月5日) |
改名 |
虎寿丸(幼名)→忠良→義辰→義久 龍伯(法号) |
別名 | 又三郎、三郎左衛門尉(通称)、太守公、貫明公 |
神号 | 大国豊知主命 |
戒名 | 妙谷寺殿貫明存忠庵主 |
墓所 |
鹿児島市池之上町の福昌寺 霧島市国分中央の金剛寺 霧島市国分上井の徳持庵 |
官位 | 従五位下、従四位下、修理大夫、贈従三位 |
幕府 | 室町幕府:薩摩・大隅・日向守護職 |
主君 | 足利義輝→義昭→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 島津氏 |
父母 |
父:島津貴久 母:入来院重聡の娘・雪窓夫人 |
兄弟 | 義久、義弘、歳久、家久 |
妻 |
正室:島津忠良の娘・花舜夫人 継室:種子島時尭の娘・円信院殿 |
子 |
御平(島津義虎室)、新城(島津彰久室)、亀寿(島津久保室、のち島津忠恒(家久)室) 養子:久保、忠恒(家久) |
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島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。
義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。