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鎌倉時代の皇族。順徳天皇の五男。無品。子に承恵(延暦寺、僧正、小川)、北白川宮 ウィキペディアから
貞応元年(1222年)生まれ。父の順徳上皇は前年の承久3年(1221年)、承久の乱に敗れたのち佐渡国へ配流されており、祖母の修明門院の四辻御所の一角で暮らしていたという[1](『五代帝王物語』)。
仁治3年(1242年)正月9日に又従弟の四条天皇が崩御するが、僅か12歳での崩御であったことから皇太子が定まっていなかった。忠成王は土御門天皇の皇子の邦仁王とともに皇嗣候補として名が挙がり、忠成王には縁戚の前摂政の九条道家[注釈 1]が、邦仁王には前内大臣の土御門定通が付いて、それぞれ鎌倉幕府に働き掛けを行った。一時は、朝廷では忠成王の皇位継承はほぼ確定的なものとされ、新しい天皇が着用する装束も忠成王の身体に合わせたものが製作されるなど、忠成王の即位に向けた準備が進められていたという[2]。
しかし、幕府執権の北条泰時は、忠成王の即位に伴って幕府に強い敵愾心を持つ順徳上皇が帰京することを懸念したらしく[2]、一時は軍事介入を仄めかしながら、鶴岡八幡宮の神意(籤を引いた結果)であるとして、邦仁王を推す[注釈 2]。結局、正月20日に邦仁王が践祚、後嵯峨天皇である(仁治三年の政変)。なお、同年9月に順徳上皇が佐渡で没した知らせを受けて忠成王は悲嘆の涙にくれたという[1]。
その後も、忠成王は皇位への望みを持っていたらしく、寛元3年(1245年)5月に平経高を召して数時間に亘って「密事等」(非常手段によって自らが皇位に就くことを望むことか[3])を語った[注釈 3]。寛元4年(1246年)5月に鎌倉幕府において名越の乱(北条光時の反乱未遂)が鎮圧され、7月には道家は忠成王を皇位に就けようと謀っているとの疑惑を受けて蟄居、その子の前征夷大将軍・藤原頼経が鎌倉から追放され、共に失脚(宮騒動)。忠成王の皇位継承の願望に対する大きな打撃となった[3]。
忠成王は宝治3年(1249年)平経高の取り計らいにより元服する[6]。ところがそれを知った幕府は宝治合戦への忠成王の関与を疑い、8月に二階堂幸泰を後嵯峨上皇への徳政を進言することを口実に兵を率いて上洛させ、修明門院を詰問している[7]。その後、四辻御所を離れて洛北郊外の岩倉に住み、石蔵宮(岩倉宮)と呼ばれた[8]。なお、文永元年(1264年)の修明門院の没後に四辻御所を含むその遺領は忠成王ではなく異母弟の善統親王(四辻宮)に継承されたため、後に岩倉宮・四辻宮間の紛争の原因となった[9]。
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