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小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。
北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。
1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)[3][4]。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。
当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した[5]。これは皇族としては唯一の例である。
1909年(明治42年)、海軍兵学校第37期卒業。卒業時の成績は26番(通常では皇族は首席となるが、特別扱いを拒否したため)。
1910年(明治43年)6月に渡台。父・能久親王が祭神となっている台湾神社を6月16日に[6]、同じく北白川宮御遺跡所(のちの台南神社)を6月17日に[7]、それぞれ参拝した。 そして同年7月20日、請願により臣籍降下し「小松」姓を賜った[8]とともに、侯爵に叙される[9]。すなわち小松侯爵家を創設する。これによって1903年(明治36年)に小松宮彰仁親王が薨じて以来断絶していた小松宮家の祭祀を承継した。当日は午前10時30分より明治天皇・皇后に対する朝見の儀が執り行われ、午前11時に爵記等が親授された[10]。なお、当時は降下の運用基準が明確でなく、降下自体が非常に稀な時期であった(永世皇族制も参照)。
海軍兵学校卒業後は一貫して終戦間際まで帝国海軍の軍務に服した。1915年(大正4年)に大尉に昇進して戦艦「金剛」、「山城」分隊長[11]。1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月間に亘る皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪航海に、海軍軍人として同行した。3月10日に皇太子が香港に上陸した際、同地の日本に対する政情不安を鑑みて、移動の車上にいた皇太子は実は、身代わりになった小松大尉であった。また、この年、少佐に昇進して軍令部参謀、海軍大学校など教育畑も務めた。
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