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肥後細川藩では、1633年(寛永10年)、甲州浪人河井半兵衛友明を江戸から迎えて、白川の八幡淵で徒士の水練の指導に当たらせた[1]。以来、歴代の藩主は游ぎを武用として奨励した[1]。宝永の頃には、小堀流流祖村岡伊太夫政文はすでに一流をたてて、白川の天神淵で上士の游ぎの指導に当たった[1]。政文の次子小堀長順常春は上士の師範として父の跡を継いだ[1]。この流は藩校時習館の武芸として明治維新まで伝習された[1]。長順は1756年(宝暦6年)『踏水訣』『水馬千金篇』を出版、後に『水練早合点』も出版された[1]。
5代師範小堀水翁の時、小堀流は隆盛を極め、稽古場10カ所、教えを受けた者1万人と称せられた[1]。水翁は游ぎ方と游ぎの名称を確立し、相伝についても体系を整えた[1]。また「水学行道10カ条」や関連書を書き残している[1]。6代師範猿木宗那は1901年(明治34年)『小堀流踏水術游泳教範』を出版し、団体教授の分解的方法を明らかにした[1]。7代師範小堀平七は学習院に奉職して、皇室・皇族・華族の指導に尽力し、叙位叙勲をうけた[1]。8代師範城義核は京都武徳会に、宗那の次弟西村宗系は長崎・山口に小堀流を伝えた[1]。
1930年(昭和5年)に全国的な泳法流派が加盟する日本游泳連盟が設立され、規約で岩倉流、踏水術(小堀流)、観海流、向井流、野島流、山ノ内流、神伝流、水府流太田派が加盟し、設立時加盟団体となった[2]。
現在、熊本・学習院・京都・長崎に伝承されており、佐賀・青森でも行われている[1]。八幡淵で行われた河井友明の伝承は途絶え、明治時代末期、沼正直によって復興が試みられたが、再び絶えてしまった[1]。
小堀流踏水術は平体と立体の泳ぎからなり、横体の泳ぎはない。小堀流は手繰游を基本として、立游を特技とする。立体は踏み足による強力な立ち泳ぎが特徴である[3]。
長崎游泳協会の解説に拠れば、以下の種類がある[4]。
小堀流踏水術の立游は、陸上で立っているのと変わらないため、立游をしながら自由に何かを行うことが可能であり、様々なデモンストレーションが行われる[4]。
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