Loading AI tools
佐賀県佐賀市の地名 ウィキペディアから
大財(おおたから)は、佐賀県佐賀市の地名・地域。大財(おおたから)及び大財北町(おおたからきたまち)からなる。郵便番号は大財が840-0811、大財北町が840-0802。
大財は佐賀市中央部の地名。佐賀市を東西に流れる人工河川で、かつて佐賀城の外堀の機能を果たしていた十間掘川の北に位置する。佐賀平野の中央部に当たりクリークが多い。域内の中央やや西よりに大財通りの愛称もある佐賀県道30号佐賀川副線が南北に走っており、県道の西側に南から1丁目、3丁目、東側に南から2丁目、4丁目、5丁目が並ぶ。また東部にはかつては国鉄佐賀線が南北に走っており、佐賀線の東側が6丁目となっている。5丁目と6丁目の北側に佐賀県道294号薬師丸佐賀停車場線が東西に走り、更に北側が大財北町となる。北から時計回りに駅前中央、兵庫北、兵庫南、東佐賀町、高木町、呉服元町、白山、 唐人、愛敬町、栄町に接する。
県道沿いに商店など商業施設が並ぶ他は住宅地が多いが、1丁目は北側に接する愛敬町と一体化し佐賀市最大の歓楽街となっているため飲食店が多い。また、三丁目は佐賀市役所のある栄町と接しており、佐賀市役所大財別館が最北部にある。大財北町は理研農産化工、戸上電機製作所の本社・工場があり地域の大半を占める。
面積は約0.87km2。平成30年住民基本台帳による世帯数及び男女別人口は以下の通り。
世帯数 | 人口数 | |||
総人口 | 男人口 | 女人口 | ||
大財一丁目 | 209世帯 | 357人 | 167人 | 190人 |
大財二丁目 | 431世帯 | 807人 | 370人 | 437人 |
大財三丁目 | 333世帯 | 613人 | 301人 | 312人 |
大財四丁目 | 288世帯 | 532人 | 245人 | 287人 |
大財五丁目 | 249世帯 | 557人 | 258人 | 299人 |
大財六丁目 | 506世帯 | 1118人 | 513人 | 605人 |
大財北町 | 165世帯 | 328人 | 165人 | 168人 |
室町期から大財村の名が見え応永4年(1397年)の「加賀守進打渡状」が初見。更に前の嘉禄2年(1226年)「佐嘉御領内小地頭等申状案」には大財五郎宗光なる名も現れている。江戸期は佐賀郡の佐賀本藩領に大財村があり、石高は500~650石となっている。
明治22年、町村制施行により神野村の大字となり、大正11年に神野村が佐賀市と合併し佐賀市大財町となる。昭和42年までに大財町、神野町、巨勢町牛島、兵庫町淵、兵庫町藤木の一部が大財、大財北町、呉服元町、白山、駅前中央などに分かれ現在に至っている。
佐賀藩は藩士の教育施設として、2代藩主鍋島光茂が元禄4年(1691)に二の丸聖堂を創立した(3代藩主鍋島綱茂が元禄10年に聖堂を鬼丸町に移転して名称も鬼丸聖堂と変更)。これに対し町民も学べる施設として、御用商人であり儒学者であった武富市郎左衛門(咸亮または廉斎)が元禄7年(1694)に民間向けの大財聖堂を建設した。これに対し、三代藩主鍋島綱茂は孔子像を、支藩蓮池二代藩主鍋島直之は顔子像を、久保田邑主村田政盛は曽子像を寄贈した。現在大財聖堂址周辺は住宅地となっており、またその場を示していたた「大宝聖林碑」も昭和28年ごろに多久市の西渓公園に移されたため正確な場所は不明となっているが、1丁目に「大財聖堂址」の石碑があり、その近くには「れんさい橋」が残っている[1]。
かつて存在した国鉄佐賀線も含め、大財地区に鉄道駅はない。最寄り駅は佐賀駅。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.