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鎌倉時代前期から中期の公卿。正二位・内大臣・右近衛大将。 ウィキペディアから
大炊御門 家嗣(おおいのみかど いえつぐ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、右大臣・大炊御門師経の子。官位は正二位・内大臣・右近衛大将。嵯峨と号す。
元久2年(1205年)に叙爵して以降、累進し、右近衛少将、遠江権介、伊予権介を経て、建保2年(1214年)に従三位に達して公卿となる。その後も右近衛中将、越前権守、権中納言、中納言、権大納言を経て、寛喜3年(1231年)には後堀河天皇の皇太子・秀仁親王(四条天皇)の春宮大夫に任じられた。
嘉禄3年(1227年)2月に西園寺実有と結婚した北条義時の娘(唐橋通時と再婚した一条実雅の元妻の妹)の母[1]が、その前年に婿を募るため入京して多数の公家の競望となった際に、家嗣も妻(坊門忠信の娘)を離別してその競望に加わっている。その後、持明院基宗の娘宗子と再婚した。
貞永元年(1232年)、四条天皇の即位と共に辞職。同年右近衛大将となる。天福元年(1233年)には後堀河天皇の皇后・三条有子の皇后宮大夫となり、暦仁元年(1238年)には内大臣に任じられ、仁治元年(1240年)には辞職した。建長元年(1249年)に出家して以降は嵯峨入道と称された。
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