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執印(しゅういん)とは、役職名から起こる氏であり、朝廷下賜の金印『八幡宮印』を預かり管理する職で、権執印・大検校・千儀と並んで、新田八幡宮社家の一である。
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惟宗康友が文治年中に執印初代として禁裏御直支配職の新田宮執印職並びに五代院院主職に補せられる。康友は鹿児島氏を称して初め鹿児島郡司並びに弁済使職。康友の子・康兼が2代目執印として、父の職を継いで執印氏を称した。
以来、執印氏は四八社家の統領として、明治に至るまで薩摩国一宮の新田宮宮司職を継承する。
3代目執印は、康兼の弟が国分寺沙汰職(留守職)並びに同所天満宮別当職に補任し、国分城(水引城)に居城して国分氏を称した国分友久の三男・康秀であり、3代目執印重兼と改めて跡を継いだ。
庶家は他に五代院院主職を譲られた五代氏がおり、子孫の五代友喜は島津義弘の家老を務めている[1]。また、島津忠良七周忌の際に納戸衆を務めた平野氏、康友の子である友家が羽島(現・鹿児島県いちき串木野市羽島)・向田(現・同薩摩川内市向田)の辺りを与えられて号した羽島氏もある[2]。
薩摩藩士としての家格は新番である。鹿児島城下・水引郷麓及び湯田・高尾野郷・長島郷・鹿屋などに執印家分家が確認される。戦後、1951年(昭和26年)に鹿児島県初の女性議員となり1992年(平成4年)まで議員として活躍した執印テルは高尾野郷執印。執印家文書七巻は新田神社文書として国の重要文化財に指定されている。
「新田神社文書(124通)9巻1枚」の名称で国の重要文化財に指定されている(昭和58年6月6日指定)。
内訳は、執印氏関係文書7巻(92通)、権執印家文書写1巻(30通)、新田宮縁起1巻、秀吉の九州平定時に立てられた小西行長等連署制札1枚。
新田八幡宮(新田神社)の社殿が承安3年(1173年)に焼失したため、それ以前の文書はほとんど焼滅し、現存する文書は永万元年(1165年) - 寛文3年(1663年)の間のもので、特に鎌倉南北朝期のものが多数を占め、鹿児島県の歴史を明らかにする重要資料である。権執印家文書も巻物にして15巻存在したが、明治8年に鹿児島県の命令により県庁に提出していたが2年後の西南戦争で焼失してしまい1巻のみが現存している。鎌倉初期以来、惟宗氏が執印に、紀氏が権執印に就任世襲し、両氏はともに鎌倉御家人であった為、社領関係文書のほか、在地領主としての両氏の譲状、催促状、軍忠状、感状などがあり、特に寛元元年(1243年)の五代院主迎阿譲状や、蒙古襲来(元寇)に関連する祈祷の指令、異国警固番役に関する文書、足利尊氏御教書、足利直義の感状、百韻連歌懐紙などは注目される。連歌は中世に流行した文芸で、横浜市金沢の称名寺所蔵の懐紙が最古とされていたが、新田神社の懐紙は称名寺のものより10年古い元応2年(1320年)と元亨3年(1323年)のもので、現存懐紙中最古のものであり、また禁制札は、小西行長ら奉行4名の連署になるもので、神社境内における軍兵による乱妨,狼藉放火を禁止した 豊臣秀吉の九州平定当時の制札である。
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