Loading AI tools
大相撲の進行に携わる役職 ウィキペディアから
呼出(よびだし)とは、大相撲での取組の際に力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者。呼び出しや呼出しとも書かれる。行司と異なり特に受け継がれている名跡はないが、力士・行司と違い、下の名前しかないことが特徴。
英語では、日本語からの音写によりyobidashiと呼ばれるか、あるいは意訳によりusherと訳される。
呼出の元々の云われは上覧相撲の際に、次に土俵に上がる力士の出身地や四股名を披露する人がおり、「前行司」「言上行司」[1]といって行司の役割に含まれる職種であった。
平安時代の相撲節会には呼出という呼称は存在しなかったが、天皇や貴族に相撲人の奏上する「奏上(ふしょう)」という役目があって、「奏上者」の職名があった。これが現在の呼出の始まりとされている[1]。
江戸時代以後に勧進相撲になり組織的な制度ができるにつれて独立した職種となった。「触れ」とか「名乗り上げ」と呼ばれた時代もあったが、享和年間(1801-1804年)になって「呼び出し」といわれるようになった(しかし、それ以前の寛政年間(1789-1801年)の番付に「呼び出し」の文字が確認されている)。
明治後期の呼出し長谷川勘太郎は名人と謳われ、呼び上げ写真がブロマイドにもなった[2]。
昭和初期までは呼出し奴と言われ地位も低かった。1932年では呼出し頭の長尾貞次郎を筆頭に40人ほどであった[3][4]。
栃若時代の太郎、小鉄も名人と謳われた。
呼出の主要な役割は、呼び上げ、土俵整備、太鼓叩きであるが、その他にも多種多彩な業務を行っている[5][6]。
現在では全員が呼び上げ・土俵整備・太鼓の「三大業務」を行うが、古くは分業制で[7]、呼び上げ専門の呼出もいれば、他の仕事を専門とする者、つまり「呼出と名がつくものの、呼び上げない呼出」もいた。現在のように全員が「三大業務」を行うようになったのは、1965年(昭和40年)からである。また、呼び上げのときの声の通り具合や声量は評価の対象ともなっている。
呼出全員で構成される「呼出会」があり、業務向上や日本相撲協会との連絡などを担う[8]。立呼出しが会長を務め、格上の呼出が監督として選出され、さまざまな事柄の取りまとめ役となる。協会からは呼出し会に対して毎年助成金が支給されている[9]。
十両呼出以上が参加する総会は毎年12月の定例会のほか随時行われ、場所ごとの反省点や今後の運営方法について話し合う。両国・回向院にある「呼出し先祖代々の墓」における法要は毎年5月場所後に行われ、現役呼出は全員参加する。
本場所の会場内には「呼出部屋」があり、全員に引き出しが割り当てられ、装束や仕事道具を保管している[8]。
大相撲において、力士の番付に倣った階級制が導入されたのは1994年(平成6年)7月場所からで、以下の9階級となる。同時に本場所における場内放送でも紹介されるようになった。それまでの階級は、1等から5等までの等級制であった。
「日本相撲伝」では1902年5月の呼出し名簿があり勘太郎、勝次郎、金次郎、重吉、亀吉、清吉、源七、三金、藤作、市太郎、與吉、伊勢徳、平吉、三代吉、市郎、小徳、駒吉、金作、才次郎と19人が掲載されている[10]。
1911年発行の「相撲鑑」には勘太郎を筆頭に25名いて給金は僅少だが錦絵や番付等を売って余禄とするとある。
昭和初期までは呼出し奴と言われていた。1932年では呼出し頭の長尾貞次郎を筆頭に40人ほどであった[3][4]。
相撲雑誌の名鑑等にも昭和40年代まで掲載されなかった[11]。
現在は十両呼出以上の名前が番付に書かれており、それ以前は1949年(昭和24年)5月場所から1959年(昭和34年)11月場所までの10年間、呼出が番付に掲載された(番付には「呼出し」と書かれた)。初めて呼出として番付に掲載された者は太郎、夘之助、栄次郎、源司、安次郎、栄吉、福一郎、小鉄、徳太郎、茂太郎、粂吉、松之助、寅五郎、雄次、多賀之丞、島吉の16人。歴史的経緯もあり、呼出は行司よりもやや地位が低く見られた[1]。
呼出の番付上の位置は、現在では西の最下段の親方衆より左側である。平成期の一時期は若者頭や世話人とともに中軸の下の方(「日本相撲協會」の文字よりは上)に記載されていたことがあった。
9階級の役責に分類され、行司の階級と違い、幕内格、十枚目格といった「格」という名称は用いない。
十枚目(十両)呼出以上の呼出は「有資格者」と呼ばれる。
力士・行司はすべての階級が番付に表記されているが、呼出は十枚目呼出以上が番付表に表記されていて幕下呼出以下は番付表に表記されない。
また、幕下格以下の行司と同様、幕下呼出以下は本場所の取組における場内アナウンスでの紹介は行われていない。ただし、千秋楽の幕内土俵入りの前に行われる十枚目以下各段の優勝決定戦では、幕下格以下の行司・幕下呼出以下でも「呼出は○○、行司は木村(式守)○○、○○(階級)優勝決定戦であります」との場内アナウンスが行われる。場内の観客に配布される取組表でも、十両呼出以上が掲載され、幕下呼出以下は掲載されない(行司について出場行司全員が掲載されるのとは異なる)。
現在の呼出の定員は45人、採用資格は義務教育を修了した満19歳までの男子、停年(定年。以下同)は65歳。大相撲においては、力士、行司、床山と同様に各相撲部屋に所属する。2019年3月場所前の相撲誌の記事によると、1場所の研修期間後に面接を経て採用となるという[12]。
呼出の番付編成(階級の昇格等)は原則年1回で、9月場所後に開催される番付編成会議の理事会において決定し、翌年1月より適用される。基本的にはほぼ年功序列であるが、稀には昇格のときに地位の追い抜きが発生することもある。その具体例は#呼出の番付編成に関する事項を参照。
昇格規定は次の通りである:
呼出の装束については、行司と異なり、階級による違いはない。着物に裁付袴、足袋というスタイルは江戸時代からほとんど変わりはない。
2024年6月1日現在 総人数:45人(定員を満たしている状態)
階級 | 名前 | 所属部屋 |
---|---|---|
立呼出 | 次郎 | 三保ヶ関→春日野 |
副立呼出 | 克之 | 花籠→放駒→芝田山 |
三役呼出 | 志朗 | 押尾川→大嶽 |
重夫 | 九重 | |
吾郎 | 押尾川→大嶽 | |
幕内呼出 | 幸吉 | 大鳴戸→桐山→友綱/大島 |
旭 | 大島→友綱/大島 | |
隆二 | 宮城野→伊勢ヶ濱 | |
琴三 | 佐渡ヶ嶽 | |
琴吉 | 佐渡ヶ嶽 | |
大吉 | 東関→八角 | |
照喜 | 安治川/伊勢ヶ濱 | |
幸司 | 伊勢ヶ濱→桐山→朝日山→浅香山 | |
利樹之丞 | 高砂 | |
光昭 | 鳴戸/田子ノ浦 | |
十両呼出 | 邦夫 | 若松→高砂 |
松男 | 松ヶ根/二所ノ関/放駒 | |
弘行 | 峰崎→西岩 | |
禄郎 | 押尾川→尾車→二所ノ関→中村 | |
正男 | 花籠→峰崎→西岩 | |
悟 | 荒磯→松ヶ根/二所ノ関/放駒 | |
太助 | 北の湖/山響 | |
重太郎 | 九重 | |
富士夫 | 安治川/伊勢ヶ濱 | |
啓輔 | 放駒→芝田山 | |
陽平 | 出羽海 | |
総一 | 二十山→北の湖/山響 | |
幕下呼出 | 照矢 | 間垣→伊勢ヶ濱 |
護 | 時津風 | |
駿佑 | 玉ノ井 | |
耕平 | 高島→春日山→追手風→中川→片男波 | |
悠斗 | 立浪 | |
節男 | 錣山 | |
直起 | 木瀬→北の湖→木瀬 | |
慎 | 陸奥→音羽山 | |
重次郎 | 九重 | |
三段目呼出 | 鶴太郎 | 錦戸 |
大将 | 北の湖/山響 | |
雄志 | 境川 | |
広 | 千賀ノ浦/常盤山 | |
序二段呼出 | 健太 | 鳴戸 |
天琉 | 朝日山 | |
序ノ口呼出 | 仁 | 阿武松 |
隈二郎 | 武隈 | |
安希隆 | 安治川 |
この節では、呼出の番付編成における年功序列との差(追い抜き昇格、追い抜かれ、留め置き等)や、中途退職あるいは死亡した呼出が務め続けていればどうなっていたか等に関する事項を示す。ここでは呼出の番付制導入の1994年7月場所以降について示す。
1888年、本所南二葉町(現在の墨田区亀沢)の俥屋の長男に生まれた。本名:戸口貞次郎。すぐ隣が大関初代朝汐太郎の家だったこともあり、相撲の盛んな町に育った。その朝汐の口利きで1898年、11歳のとき呼出し親分の勘太郎の弟子となり、朝汐にあやかって「太郎」の名をもらう。入門5年目に小結源氏山頼五郎以下40余名の脱走事件があり、そのとき太郎も一緒に飛び出している。これが苦労の始まりで、いろいろ地方を渡り歩く長い放浪時代もあり、無謀なことも数々やったが、やがて大坂相撲に縁ができ、呼出として再起[17]。
大坂相撲の呼出は満足に太鼓を叩ける者がおらず、太郎はにわかに頭角を現すこととなる。ここで行司の木村金八(後の木村錦太夫、22代木村庄之助)と知り合い意気投合、生涯の交遊が始まる。大坂相撲時代、巡業先で太鼓を質に入れたため、宿でカラの醤油樽を借りて叩いたが、仲間の内誰も気がつかなかったという。その後、昭和時代の幕開けとともに、東京と合併。太郎は大坂の呼出を全員東京に売り込んで男を上げた。親分の下地はそのときからで、太鼓も東京の呼出の誰にも負けなかったという[17]。
定年退職した1960年まで63年間を貫き、「太鼓の名人」「相撲界の名物男」「呼出の親分」として知られた。また両国の自宅を長年相撲記者クラブに開放し世話係を務め(定年後も続けていた)、確固たる地位を築いた。この頃はもう櫓に上がることはなかったが、花相撲のおりの「太鼓の打ち分け」はまさに圧巻、独壇場の名人芸だったという。
1952年1月に行われた巣鴨拘置所、A級戦犯慰問大相撲で「太鼓の打ち分け」を披露し、荒木貞夫、鈴木貞一、畑俊六ら10人の旧日本軍の重鎮、軍閥の連名からなる礼状が届けられた。所属が角界一の大部屋出羽海部屋ということも幸いし、7代出羽海(元横綱常ノ花)、8代春日野(元横綱栃木山)の両取締とは気軽に口のきける立場にあった。
1949年5月場所前、太郎が協会で取締に「呼出も番付の隅っこに名前を載っけて欲しい」と請願したことがきっかけで、16人の呼出の名前が初めて世話人とともに番付に掲載されることになった。これは1959年11月場所、太郎が停年退職する直前まで10年間続いた。1969年11月3日、秋の叙勲で勲六等単光旭日章を受章。相撲界では初めて生存者叙勲の光栄に浴した。1970年1月8日には理事長武藏川、審判部長春日野(元横綱栃錦)をはじめ180人が出席し祝賀会が挙行された。席上、横綱審議委員高橋義孝は「醤油樽叩いてもらう勲六等」の句を披露し祝福した[18]。1971年3月3日、83歳で死去[17]。妻には家と現金7千円を遺産として残した。墓所は両国回向院。戒名は「太鼓院技巧日貞居士」[17]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.