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広島県の城跡 ウィキペディアから
吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されている[1]。
城は可愛川(江の川)[注釈 1]と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。
安芸高田市によれば、近年発掘調査が進んで城の建物は判明しだが、予算の関係で建物の木造復元計画はない。
吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる[2]。吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)であるが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述してある[3]。
文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永4〜7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっているため[2]、元春が築城したと解説される場合もあるが[4]、これが吉田郡山城のことを指すのかどうか、現存の吉田郡山城に直接繋がる城なのかどうかは定かではない[3]。
当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった[3]。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており[3]、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった[3]。ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていた[注釈 2]。少なくとも、南麓に堀が設けられたのは、天文20年(1551年)頃とされ[2]、城域が拡張されたのも天文年間の後半とする見方もある[3]。
拡張・整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった[3]。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいう[4]が詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており[2]、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり[3]、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。
しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年[4]、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃[2]などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。この時に、山麓の堀は埋められた[4]とも言われているが、大坂城天守閣[注釈 3]で保存されている穂井田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。また、山城を重視する輝元が、完全な平城である広島城に対して、詰めの城として引き続き吉田郡山城を温存していたとの見方もある[3]。
慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された[4]。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)[2]。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。
江戸時代中期には吉田郡山城とその城下を描いた絵図「吉田郡山御城下古図」が作成された(現在は毛利家文書として山口県文書館に収蔵)[3]。また、幕末にも浅野氏による測量が行われた[3]。
明治初期に、毛利元就墓所の改修工事が行われ、二の丸跡の石垣から一部の石が運び出されたと記録がある[5]。
1940年(昭和15年)に吉田郡山城跡が国の史跡に指定され、1988年(昭和63年)には多治比猿掛城跡を追加して「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」となった[2]。
1990年(平成2年)、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館、毛利氏関連資料が公開された。また郡山の西にある大通院谷の渓流砂防事業により公園が整備されているが、それに先だって1995年(平成7年)頃より発掘調査が行われている。この調査では、毛利氏時代より古いものを含めて、遺構・遺物が発掘された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。
城の遺構は、標高約390メートル(比高190メートル)の山頂部[2]から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある[2]。複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である[3]。
城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及ぶ[3]。 山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである[3]。
その他、城内には、毛利元就墓所、毛利隆元墓所、伝元就火葬場跡、毛利氏歴代墓所(毛利時親から毛利豊元迄合葬墓、毛利興元、毛利幸松丸、尾崎局)、嘯岳禅師墓、百万一心碑などがある。
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