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古代ローマ社会において奴隷は社会・経済分野で重要な役割を担っていた。肉体労働や接客業務だけでなく、高度な知的労働にも従事していた。たとえば教師や会計士、医師は多くの場合奴隷が従事する職業で、これら高度な知識が必要とされる業務は、多くの場合ギリシア人奴隷が充てられた。それに対して、能力の劣る奴隷は農場や鉱山で使役されていた。
古代ローマの奴隷の用途は、極めて多岐にわたる。主に、都市の邸宅で使役される家内奴隷と、地方の奴隷制農場(ラティフンディウム)などに用いられる使役奴隷に大別される。以下、詳細を述べる。
このように奴隷の仕事が多岐にわたったのは、古代ローマの市民が労働によって報酬を得る職業を卑賤なものと看做したからであった。たとえ国家の役人であっても、報酬をもってこの職業に就く事は憚られたのである。
奴隷は戦争捕虜や奴隷が産んだ子供が主であったが、中にはローマ市民を含む自由人が経済的理由で自らを売って奴隷になったり、同様の理由で売られた子供が奴隷となることもあった[1]。海賊によって拉致されたり、捨てられたりして身寄りのない子供が奴隷となって売られることもあった。なお、自由人である主人が奴隷女に産ませた子供は法律上奴隷であった。奴隷市場で取引される成人男性の奴隷1名の価格は約1000セステルティウス、女性の場合は約800セステルティウス程度であり[1]、これはローマで1家4人の年間の生活費(500〜1000セステルティウス)と同程度の価値であったとされる[1]。40歳を超えた男性や14歳以下の少年は約800セステルティウス、老人や幼児は400セステルティウス程度であったとされる[1]。この価格はアウグストゥス帝が奴隷取引に2%の税を課した時の税収(年間500万セステルティウス)ならびに、ディオクレティアヌス帝の最高価格令にある奴隷と小麦の交換比率を元に推定したものである[1]。なお、奴隷の価格は需給関係で変化し、大規模戦争に勝利し捕虜が大量に供給されたら下がるなどの変化があった[1]。
奴隷は主人の所有物であり、主人は奴隷の生殺与奪の権利を持っていた。ただ厳格な家父長制があった古代ローマにおいては、家父長は自分の妻や子に対しても同様の権利を行使する事ができ、そうした意味においては奴隷も「家族なみ」であった。
自由人のように法的権利はほとんど認められていなかった[2]が、都市部の奴隷は金銭や物などの個人財産を持つことや、事実婚を行うことは一般的に認められていた[2]。しかしながら、犯罪の疑いが掛けられた奴隷に対して、主人が拷問の正当性を証明できた場合は、証言を引き出すための拷問は認められていたし[3]、主人の殺害については近くに居た奴隷全員を処刑することも一般的であった[3]。また、性的虐待も法的に問題はなかった[4]。上流階級である主人の多くはストア哲学の考え方に影響を受けている場合が多く、哲学者セネカのように『奴隷も自由身分の使用人と同じように適正かつ公正に扱うべき』と考える人も現れるようになった。帝政期になると、主人の暴虐を理由として神殿に逃げこむ権利などが認められるようになった[2]。
老いたり病気になったりして使役に適さなくなった奴隷について、ローマではティベリス川の中洲のティベリーナ島に捨てたとされる慣習があり、クラウディウス帝がこれを禁じようとしたとの記録もある[5]。このように資産価値のなくなった奴隷の扱いは良かったとはいえない。
主に都市部の奴隷は懸命に、誠実に仕事に取り組んで主人によく支えれば、いずれは解放されると期待することが出来た。この解放されるまでの期間は5〜6年から20年近くと大きな幅があった[6]とされる。農村地帯で使役された奴隷は、農場管理人を除いて解放されること無く死ぬまで奴隷として働いたと考えられている[6]。古代ローマの奴隷制度は、大勢の人間を外部からローマ社会に取り込むための仕組みでもあり、解放された奴隷の子供の代にはローマ市民権を得る事すら可能であり、後に解放された奴隷自身にも市民権の獲得機会が与えられたが、処罰を受け足枷を付けられたり烙印を押されたりした経歴がある奴隷は、アエリウス=センティウス法(紀元後4年制定)により解放されて自由人になってもローマ市民権は得られなかった[6]。また、主人が一度に解放できる奴隷の割合を制限するフフィア=カニニア法(紀元前2年制定)などもあった[6]。奴隷は主人の決定や遺言により、また奴隷自身[7][8]や第三者が主人に対価を支払うことで『解放』された。解放された奴隷は『解放奴隷』(男性の場合リベルタス libertus、女性の場合リベルタ liberta)と呼ばれ自由人となるが、解放後も元主人やその家(ファミリア familia)に対して様々な義務を果たすことが法的に決められていた。この場合の主人を『パトロヌス』(保護者)といい、解放された奴隷を『クリエンテス』(被護者)という。解放奴隷の中には皇帝のファミリアの一員として権勢をふるったものや、学者や作家として優れた業績を残したものも居た[6]。
共和政期には奴隷制度も安定せず、奴隷による抵抗が大規模な叛乱を引き起こしたものもある。その中でも大規模なものは3度の奴隷戦争であり、スパルタクスが引き起こした第三次奴隷戦争(紀元前73年から紀元前71年)は有名である。帝政期にはいると大規模な反乱は起こらなくなり、日常的な嘘、ごまかし、怠慢、仮病などといったささやかな抵抗になっていった[9]。
上記の通り、高度な知識を持った奴隷が、知的労働者として高額で売買されると、それを目的として高額で転売する目的をもって、自分の所有する奴隷に高い教育をほどこす例も多々見られた。商業を侮蔑し農業にたちかえる事を主張した大カトーも、才能がある奴隷を見いだして教育を受けさせ、高額で転売する事に限っては、利殖として認めている。ガイウス・ユリウス・カエサルの家庭教師は、ギリシア人が最高とされたこの当時において、ロードス島で教育を修めたガリア人であった。当時のガリア人が自発的意志でロードス島で教育を受けたとはとうてい考えられず、奴隷になった後で所有する主人の意向で教育を受けさせられたものと考えられる。
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