反マニエリスム
マニエリスムに対抗してできた美術の流派。一部の宗教画で見られる。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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反マニエリスム(英語: Counter-Maniera, Counter-Mannerism, Anti-Mannerism)は美術史において16世紀イタリア絵画の研究者たちによって提唱された潮流で、およそ1530年から1590年にイタリアの芸術において一世を風靡したマニエリスムの一種、あるいはその一時期を指す。反マニエリスムは第二世代に当たる16世紀後半のマニエリスムの画家たちの作り出す不自然さに対抗するものであった。それは当時の芸術家たちが最後の総会である1563年のトリエント公会議にて施行された「聖人の取次と崇敬、遺物、聖画像に関する教令」[3]の明確さと単純さのための曖昧な処方[注釈 2]に従うことが望まれたことを原因とするものであり、「正しい様式における命式さと内容の分かり易さ」("clarity in formal order and legibility in content")と共に、高度なマニエリスム方式からの歪曲と芸術性の排除、及び部分的な古典主義への回帰と盛期ルネサンス芸術のバランスを示すものであった[5]。
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この言葉は美術史家のシドニー・ジョセフ・フリードバーグ(英語版)(1914–1997)によって考案され、受容された。しかしそれは他の美術史家たちにも分け隔てなく受け入れられたわけではなかった。反マニエリスムは1971年に初版が出版されたフリードバーグの著作『イタリア絵画 1500-1600』(原題:Painting in Italy, 1500–1600)の中で定義された16世紀のイタリア絵画の4段階の内の一つであり、その後長期に渡って初期マニエリスム、盛期マニエリスム、反マニエリスム、後期マニエリスムと区分された一般的な教科書となった[6]。それぞれの様式は継承された訳ではないが、盛期マニエリスムが優位である16世紀の第3四半期に反マニエリスムの主な期間が重なるなど、ほとんどの期間に並行して存在していた。多くの場合反マニエリスムは芸術家たちの中期から後期の作風において発展したり、あるいは一部の作品、特に宗教的な依頼に見られ、他の同じ画家の作品では引き続き盛期マニエリスム様式を使っているなどが見られた[7]。
フリードバーグと同年代のフェデリコ・ツェーリ(英語版)は1957年に彼の造語である「アルテ・サクラ」(arte sacra、聖なる芸術の意)をバロック直前のローマ絵画において導入、あるいは復活させた。これはフリードバーグの反マニエリスムより期間、様式双方においてより広く扱うものであったが、大部分においては重複するものだった。 美術史家たちの様式による区分けを使うことに対する抵抗から、反マニエリスムの語が使われることは少なくなっている。2000年には美術史家の先駆者でフリードバーグの助言を受けたマルシア・ブラウン・ホールが彼女の論文「ラファエル以後:16世紀イタリア中心における絵画」(原題:After Raphael: Painting in Central Italy in the Sixteenth Century)を読んだ人物から「根本的な欠陥」としてこの語や他の語を使用したことについて、本の冒頭で「様式区分についての言及」にて謝罪を示し、用語の使用を最小限に留めるとしたにもかかわらず、批判された[8] 。