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向井去來による俳諧論書 ウィキペディアから
『去來抄』(きょらいしょう)とは、向井去來が松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構え等をまとめた俳諧論書。 1702年(元禄15年)頃から去來が没した1704年(宝永元年)にかけて成立したとみられる。1775年(安永4年)に板行されて世に流布したが、去來の没後70年以上を経ていたため、本書が真実去來の著したものであるか否かが問題視された[1]。 しかし有力な反証もまた無く、その内容は蕉風を語る上では事毎に引用されてきた[2]。 蕉風の根本問題に触れた批評が多く蕉門の俳諧書として良くまとまり、近世俳諧史上、蕉風俳論の最も重要な文献とされている[3]。 『去來抄』をはじめとする元禄の俳論は現代に比しても優れたところがあり、芭蕉研究者にも、初心に俳諧を学ぶ者にも良い指針となっている[4]。
去來抄 | ||
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去來抄 稿本 五島美術館 大東急記念文庫 所蔵 | ||
著者 | 向井 去來 | |
発行日 | 1775 | |
発行元 | 自筆 | |
ジャンル | 江戸時代の俳論 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本 | |
形態 | 書跡・典籍 | |
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安永板本は「先師評」「同門評」「修行教」の上中下3冊、伝来する写本は「先師評」「同門評」「故實」「修行」の4部4冊により構成される。さび・しをり・ほそみ・かるみ・不易流行・花実・本意本情・匂・位・面影など、蕉風の本質から付合の技法に至るまで多方面にわたる問題を取り上げている[5]。
芭蕉の没後、門人らの手になる俳論書が次々と刊行された。それらの中には、芭蕉より去來が受けた教えとは相反する論述も見られた。去來はこれらに対して己の理解するところを書き記さんとし、かくて蕉門随一の俳論書の筆は執られた[9]。 去來は関西でも蕉門随一の高弟であり、芭蕉も戯れに関西の俳諧奉行とも呼んだほどの達者であった。『去來抄』に見えるその思想は、芭蕉のそれを忠実に受け継いだものと言って良い[4]。 芭蕉は門人に対して非常に懇切丁寧に指導添削を行ったが、俳論などを書き残したものは驚くほど少ない。これは芭蕉が自らを語ることを嫌った為でもあるが、自分の思想が師伝とされて後世を縛るものとなることを恐れた節もある。あるとき芭蕉は遠方の門人より付句の作法を問われて17箇条の説明を書き送ったが、蕉風の付句はこの17箇条に限るものと誤解されることを恐れて捨てさせたという逸話があるほどである。故に芭蕉の思想は門人の書き記した諸説より窺い知るしかなく、師説を門人それぞれに解釈したものを読み合わせる必要がある[4]。
土芳の『蓑虫庵集』によれば、1702年(元禄15年)の春に去來より「嵐山」「鹿」「竹薮」「園の瓜」を題として出句を依頼されたという。去來は同時期に長崎の卯七を後見し、句集『渡鳥集』の編纂を行っていたが、これは故郷長崎を周遊した際の俳友との交流を記念したものである。去來が土芳に頼んだ4つの題は京都の落柿舎にちなむもので、後の1704年(宝永元年)5月27日付『土芳・半殘宛書簡』にあるところの『落柿舎集』編纂の為に出句を頼んだものであろう[10]。 この『落柿舎集』とは、去來が当初俳論と発句の双方を収める文集の編纂を志して集句を行ったものである。同じく『土芳・半殘宛書簡』によれば、その後1704年(元禄17年)になって『落柿舎集』から『去來抄』へと題を改めた上で俳論の草稿に注力したと見えるが、1704年(宝永元年)9月に未完成のまま病没して俳論のみが残った[11]。 一部には写本の形で伝えられていたが、安永期に京都の井筒屋[* 1]が板行した事によって一般に流布した[12]。
安永の『去來抄』刊行に先立ち、江戸では『俳諧花實集』と題する俳書が刊行されていた。『花實集』は去來による序と称する一文を付け、去來の遺著であるとされた。その内容において『去來抄』と相通づるところの多いものであったが、『去來抄』では去來と門友との問答であるところが、『花實集』では其角を中心としたものとなっていた。このため『去来抄』と『花實集』とは、少なくともいずれか一方が偽書であり、遅れて刊行された『去來抄』は疑いを持たれ続けた[2]。
『去来抄』や『花實集』の内容そのものである去來の遺著と称する論説が世に流布されたのは、安永板本が初めてではなかった。[13]。 去來遺著の諸説は去來生前に成立した俳書に一致するものが多い。このことはまた同時に、この遺著なるものはそれら諸書に材料を得て、去來一人の手になるかのように作り上げられたものではないかとの疑惑を持つことも出来ることになる。しかし蕉門俳書の大多数は知られているにもかかわらず、それらの俳書から得られるところは『去來抄』全体の10分の1にも満たない。故に『去來抄』『花實集』のいずれにしてもその基となった成書がなければならず、それは結局のところ去來の手になるものと見るほかは無い。蕉門他流の秘蔵書であったならば、其角・嵐雪ならば『花實集』の企ては無かったであろうし、許六・支考・越人・野坡などであればこれを秘することは無い。土芳には『三冊子』があり、杉風の秘蔵書にはこの成書と見られるものは無い。結局のところ、去來の伝と見るのが最も合理的なのである。[2]。
勝峯晋風[† 2]の『日本俳書大系』によれば、1745年(延享2年)に井筒屋より刊行された舊山撰『やまとがさ』奥付に「蕉門評 京貯月慮柹豪撰 去來遺著 三冊」と見え、去來の遺著と伝えられるものが延享以前に既に刊行されていたと知れる。川西徳三郎の『和露文庫俳書目』によれば溝口素丸[† 3]の1755年(宝暦5年)刊行『俳諧教訓百首』に巻末付録としてある「去來先生確論」は「故實」と「修行」に当たるものであり、元は1753年(宝暦3年)の夏に『去來實記』という書から抜抄したものだという[13]。
『花實集』は芭蕉の没した1694年(元禄7年)の冬に其角が落柿舎で越年した際の対談を基にしたとされるが、中村史邦[† 4]の1696年(元禄9年)3月刊『芭蕉庵小文庫』からの引用がある点から完成はそれ以降と見られる。『去來抄』は去來の生存中に成稿したと見る他は無い。志田義秀は「去來抄を疑ふ」と題し、これらの資料を基に『去來抄』の成稿は元文ないし享保以前には遡れないとして、『去來抄』は去來の信奉者が『花實集』から記事を取り、語る人物を取り替えて去來を称揚し、ひいては江戸座一派や美濃派・伊勢派などに対し去来系統の優位を示すために作成されたものであると論じた[13]。
これに対し潁原退蔵は、『去來抄』が『花實集』から材料を借りたものとする説を強く否定した[2]。 1762年(宝暦12年)の大島蓼太・愚得坊鼠腹撰『俳諧無門閥』は収録する俳話48編中29編が『去來抄』の流用または抜抄であり、その内容は『去來抄』4冊の全てにわたっている[14]。 1767年(明和4年)成立の蓑笠庵梨一『もとの清水』に参考書籍の一つとして挙げられた『去來集』なる書は『去來抄』と同一の書であろうと目される[12]。 一方でこの内容を其角の門流と伝える書は『花實集』以前には全く見られず、寧ろ『去來抄』翻刻の動きを知った江戸座一派が、自派の権威を高からしめるために『花實集』を作成したのであり、『花實集』にこそ文中の問答者を取り替えた作為があるとした[2]。
潁原は『去來抄』の古写本の中でも、古梓堂文庫[* 2]に蔵する一本に注目し、仔細に検討を加えた。この本は「先師評」と「同門評」の2篇のみ現存するが、巻末に添えられた絅坊灰霜による識語には「或時知府の館にありける若杉の何がしと風雅を語るに、柿落舎の草稿其家に殘せり(中略)翁の金言、門人の高論、修教、古實の四ッの巻なり。(後略)」とあり元は「故實」と「修行」の2篇も存していたと見える。またその書体・用紙は去來の時代のものとして受け入れ難いものではない。この識語の通り去來自身の草稿であるならば、『去來抄』の真贋はたちどころに決着する。潁原は現存する去來真蹟との照合では、去來自筆と確定できないとした。しかしこの本は普通の写本とは異なり、文章を塗抹し、書き加え、二通り三通りに記すなどおびただしい添削推敲の跡がある。あまつさえ原字が判らないほど塗潰した所もあり、模写したものとは考え難いと論じた[2]。
無論これは去來の草稿ではなく、偽書作成者の草稿であることも考えられる。しかしこの本は更に、裏面に『去來抄』本文と同一の筆跡で『渡鳥集』夜巻の草稿、去來が伊東不玉[† 5]に送った論書などが記されている。『渡鳥集』は卯七が去來の後援を受けて撰したものであり、この草稿に見える推敲の結果は『渡鳥集』板本と全て一致した。「此間一行あく」「此追加ヲ裏ニおくりて」等とある注意書きも、板本ではその通りになっている。潁原はこの草稿の筆者は『渡鳥集』の撰者である卯七、または不玉宛論書の筆者であるべき去來と推定し、当然『去來抄』本文についても卯七か去來の筆になるものとした[2]。
『去來抄』が卯七の筆録によるとの説は、従来も伝えられてきたものである。去來と親しく義理の従兄弟であった卯七が、『去來抄』を執筆したとしても不自然なことはない。卯七の真蹟と称するものは僅かな短冊しか無く、筆跡鑑定による客観的な証拠は得られなかった。潁原は今後有力な真蹟が現れることを待つとしながらも、この古梓堂文庫本こそは間違いなく現存する『去來抄』の稿本であると結論付けた[2]。
その後、岩淵悦太郎は同僚である本庄實の家に伝わる『土芳・半殘宛書簡』が『去來抄』にまつわるものではないかと杉浦正一郎に教示した。本庄は杉浦にとっても大阪高等学校時代の恩師である。その家は藤堂家の家臣で代々上野の藩士という由緒正しいものであった。杉浦はこの書簡と潁原の示した古梓堂文庫本は筆勢が全く同一であることを確認し、また『俳人真蹟全集』第5巻に見られる「木節・乙州宛書翰」や『芭蕉門古人眞蹟』の「盛久傅」、『回家休』などの去來筆とも疑問の余地無く同筆勢であった。ここに『去來抄』稿本及び裏面の『渡鳥集』『不玉宛論書』草稿は全て去來真蹟と確認され、その真贋は遂に決着が付くこととなった[15]。
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