Loading AI tools
ウィキペディアから
原口 兼済(はらぐち けんさい、1847年4月2日(弘化4年2月17日[1][2][3])- 1919年(大正8年)6月18日[1][2][3][4])は、明治から大正初期の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。
森藩士・林(才木[2])寛吾の四男として生まれ[1]、同藩士・原口等の養子となる[1]。1870年(明治3年)陸軍兵学寮青年学舎に入り[1][4]、1872年(明治5年)陸軍少尉に任官し5番大隊付となる[1][4][5]。歩兵第1連隊大隊副官、陸軍士官学校付などを経て[1]、1877年(明治10年)3月から9月まで西南戦争に出征した[1]。
歩兵第3連隊大隊長、陸士生徒司令官、陸軍戸山学校次長、ドイツ差遣、戸山学校長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し[1][5]、日清戦争末に第4師団参謀長として出征したが終戦となった[1][3]。再度、戸山学校長となり[1]、1897年(明治30年)9月、陸軍少将に進級[1][5]。歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵第17旅団長、留守第1師団長、韓国駐剳軍司令官、大本営付、教育総監部参謀長などを経て[1][3][5]、1905年(明治38年)1月、陸軍中将となった[1][2][3][5]。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行、樺太全土を占領した[2][3]。1906年(明治39年)7月に休職し[1]、翌年(明治40年)11月13日、予備役に編入された[1][5][6]。1909年(明治42年)4月1日、後備役となる[7]。1914年(大正3年)4月1日に退役した[8]。
1907年(明治40年)9月21日、男爵を叙爵[2][5]。1910年(明治43年)8月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9]、1918年(大正7年)7月9日まで貴族院議員を務めた[1][4]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.