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千葉陸軍高射学校(ちばりくぐんこうしゃがっこう)とは、現在の千葉市小仲台にあった日本陸軍の教育機関のひとつ。通称は防空学校(ぼうくうがっこう)、後に高射学校(こうしゃがっこう)。ここでは前身となった陸軍野戦砲兵学校高射砲練習隊および陸軍野戦砲兵学校教導連隊高射砲隊についても述べる。
日本陸軍における高射砲兵の研究は1913年(大正2年)に開始され、大阪砲兵工廠が三八式野砲を用いた臨時高射砲の実験を行なっていた。青島攻略戦では、野砲兵第24連隊が臨時高射砲隊を編成して、この三八式野砲応用臨時高射砲2門を投入、1914年(大正3年)11月にドイツ海軍のルンプラー・タウベを相手に射撃を展開した。この戦闘は日本で初となる高射砲の実戦参加であった。日本軍は青島攻略戦に勝利したが、ドイツ軍の持つ僅か一機のタウベに勝利する事はなかった。
1922年(大正11年)に十一年式七糎半野戦高射砲が制式化されると、8月には旧千代田村の陸軍野戦砲兵学校に本部と2個中隊からなる高射砲練習隊が創設された。更に、野戦高射砲隊の戦時編制も定められ、僅かずつではあるが高射砲隊も注目されるようになった。
十四年式十糎高射砲が1925年(大正14年)に制式となり、同年5月に陸軍野戦砲兵学校高射砲練習隊は陸軍野戦砲兵学校教導連隊高射砲隊へと改組された。これと共に、同校にて高射砲第一連隊が新設された。しかしながら、野戦砲兵学校の高射砲隊に甘んじなければならず、高射関係の調査、研究、実験及び学生教育は消極的にならざるを得なかった。日中戦争の開戦で多くの野戦部隊が動員され、常設部隊の増強が行われ、軍事関係の機関は逐次充実していった。
陸軍防空学校令が1938年(昭和13年)3月に公布された[1]のに伴い、四日後には陸軍野戦砲兵学校内に陸軍防空学校創立準備委員室が設置された。陸軍防空学校はそれから四箇月後となる陸軍防空学校令の施行日に合わせ、千葉市小中台町に設立された[2]。その編制は校長の下、本部、教育部、研究部、教導隊(高射砲中隊一、照空中隊一)、材料廠とされ、任務は以下の通りであった。
1945年7月には高射学校の教導連隊も防空の一翼を担う事となり、空襲時は防空活動を行なった。
終戦時の編制は本部、教育部、研究部、教導連隊(本部および指揮中隊一、高射砲大隊三、照空大隊一、機関砲大隊一)、幹部候補生隊(本部および中隊三)、生徒隊(本部および中隊二)、材料廠であった。
常備されていた兵器
陸軍野戦砲兵学校
高射砲練習隊長
教導連隊高射砲隊長
陸軍防空学校
千葉陸軍防空学校
千葉陸軍高射学校
分教所
銚子分教所長
浜松分教所長
千葉陸軍高射学校
千葉陸軍高射学校浜松分教所
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