利用者:Sarandora/試訳中記事4
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プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス (ラテン語: Publius Aelius Trajanus Hadrianus Augustus[1][2][3] 76年1月24日 - 138年7月10日)は第14代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第3代君主。自らの名で呼ばれるハドリアヌスの長城を始めとして、パンテオンやウェヌス・ローマ神殿の再建など数多くの建築事業を遺した。また優れた教養家で古代ギリシャの文化に精通していた事でも知られている。
ハドリアヌス Hadrianus | |
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ローマ皇帝 | |
ハドリアヌス胸像 | |
全名 |
プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス(出生時) Publius Aelius Hadrianus カエサル・プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス・アウグストゥス(即位時) Caesar Publius Aelius Traianus Hadrianus Augustus |
出生 |
76年1月24日 イタリカ |
死去 |
138年7月10日(62歳没) バイアエ(イタリア本土) |
継承 | アントニヌス・ピウス |
配偶者 | ウィビア・サビナ |
子女 | なし |
家名 | ネルウァ・トラヤヌス家 |
王朝 | ネルウァ=アントニヌス朝 |
父親 | ハドリアヌス・アフェル |
母親 | パウリナ |
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ハドリアヌスは先帝であり、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代(実質的には初代といえる)であるトラヤヌス帝の従兄弟ハドリアヌス・アフェルを父として生まれた[4]。先帝の数少ない血縁者として前皇妃ポンペイア・プロティナは急死したトラヤヌスが従甥ハドリアヌスを後継者に指名したと主張し、周囲の貴族もこれに同調した。彼らの後押しを利用してハドリアヌスは従伯父の帝位を引き継ぐ事ができた[5]。
皇帝としては文化政策に勤しんで上述の様な建築事業を推し進め、同時に広大化した帝国領内を巡察する事に時間を費やし続けた。その為に殆ど帝都や本土に留まらなかった事から元老院や民衆からは馴染みの薄い存在であり、私生活でも同性愛に耽溺して跡継ぎを残せなかった。しかし一方で巡察の努力によって統治の行き届いていなかった地域に今度の備えを残し、また属州では軍隊と生活を共にして彼らからの信頼を勝ち取っていた。最終的にハドリアヌスの帝国再編は従伯父が遠征で勝ち取った地域の殆どを放棄し、かつ長大な要塞線を建築する事に繋がった。
晩年は病に苦しめられ、後継者の不在から政治的混乱も発生した。死に瀕したハドリアヌスは側近アントニヌスを後継者に指名したが、その条件は彼の妻である大ファウスティナの甥マルクス・アウレリウスを皇子とする事であった。アントニヌスが甥の後見人となるのを了承した直後、ハドリアヌスは病没した[6]。