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正祖(朝鮮語: 정조、1752年10月28日(乾隆17年9月22日) - 1800年8月18日(嘉慶5年6月28日)は李氏朝鮮第22代国王(在位:1776年4月17日 - 1800年8月18日)。諱は「李祘」。字は「亨運」。号は「弘斎」。諡は「恭宣[1]敬天明道洪徳顕謨文成武烈聖仁荘孝大王」。王陵は健陵。
概要 正祖, 王朝 ...
正祖 | |
---|---|
李氏朝鮮 | |
第22代国王 | |
![]() 璿源系譜紀略 | |
王朝 | 李氏朝鮮 |
在位期間 | 1776年 - 1800年 |
都城 | 漢城府 |
字 | 亨運 |
号 | 弘斎 |
諡号 | 恭宣[1]敬天明道洪徳顕謨文成武烈聖仁荘孝大王 |
廟号 | 正祖 |
生年 | 1752年10月28日 |
没年 | 1800年8月18日 |
父 | 荘祖 |
母 | 献敬王后 |
陵墓 | 健陵 |
元号 |
乾隆 嘉慶 |
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壬午士禍による荘祖の死後、真宗の王統に入籍し王世孫に冊封された。1775年から1776年間は英祖に依り代理聴政を行う。 即位後の1776年から1780年間は洪国栄による勢道政治が行われ、追放後の1780年から1800年間は親政を行う。
親政には老論を牽制する為に、蕩平策を用いて少論と南人の登用、特に丁若鏞、蔡済恭、安鼎福等を側近とした。一方で老論からは、金鍾秀、沈煥之等を側近とした。他にも兪拓基の門下生を重用している。奎章閣を建立して、超越的な統治者として君臨し、師として臣下を養成、再教育した。また壮勇営を創設して、老論の軍権を牽制する事で、政治改革を断行したが、癰を患ってから僅か1ヶ月足らずで薨去した。享年は48歳。[註 1]