利用者:Quark Logo/sandbox3文禄・慶長の役(部分統合準備用)
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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年[注 10](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 10](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である。(他の名称については下記)
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この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。(2015年5月) |
文禄の役 | |
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文禄の役『釜山鎮殉節図』[注 1] 釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 | |
戦争:文禄の役 | |
年月日:文禄元年4月13日(1592年5月24日) - 1593年7月 | |
場所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 | |
結果:小西行長と沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 2][出 1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。 | |
交戦勢力 | |
豊臣政権 | 明 |
指導者・指揮官 | |
総大将 宇喜多秀家
毛利勝信(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊
福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之(得居通幸)、来島通総
小早川隆景、毛利秀包、立花統虎(宗茂)、高橋統増、筑紫廣門、毛利輝元[注 3]
宇喜多秀家ほか
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明軍
兵部尚書石星
都体察使 |
戦力 | |
日本軍 158,700人[出 1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照) |
明軍 53,000人 朝鮮軍 172,000人 義兵軍 22,400人 計247,400人[注 6] |
損害 | |
少なくとも約21,900人以上[出 2](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む)
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不明
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慶長の役 | |
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蔚山籠城図屏風, 包囲された加藤清正を毛利秀元らが救援して明軍に大勝した。(福岡市博物館所蔵) | |
戦争:慶長の役 | |
年月日:1597年1月 - 1598年12月 | |
場所:朝鮮半島三南地方 | |
結果:豊臣秀吉死去で日本軍が帰国して終結[1]。講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張したまま未決着。(「柳川一件」も参照) | |
交戦勢力 | |
豊臣政権 | 明 |
指導者・指揮官 | |
総大将小早川秀秋 | 明軍
左協軍大将李如梅 |
戦力 | |
141500人[出 3] | (諸説あり) |
損害 | |
約50000[注 7](大半が病死・餓死。戦死はわずか)
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数十万人[注 8][注 9](文禄・慶長両役の総計) |
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 11])で表記。( )の年は西暦である。