利用者:Nux-vomica 1007/フランボワイヤン式
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フランボワイヤン式(フランス語: Flamboyant)は、1375年ごろから16世紀中期まで、中世後期からルネサンス期のヨーロッパで発展した後期ゴシック建築の一様式である[1]。この様式の語源となった、火焔(flamboyant)のようなかたちをした二重カーブのバー・トレーサリー(英語版)[1][2]、ヴォールトにおけるアーチ型の装飾リブと、アコレード(英語版)とよばれる装飾アーチの多用に特徴づけられる[3]。フランボワイヤン式の目立つ特徴である、火焔のようなトレーサリーのリブは、それ以前の様式であるレイヨナン式の曲線的なトレーサリーの影響を受けている[1]。非常に高く、幅の狭い尖頭アーチ(英語版)と破風、とりわけ二重カーブの葱花アーチ(英語版)も、この様式の建物で一般に見られる[2]。ヨーロッパのほとんどの地域で、フランボワイヤン式のような後期ゴシック様式は、レイヨナン式をはじめとするそれ以前の様式に取って代わった[4]。
この様式は特に大陸ヨーロッパで好まれた。15世紀から16世紀にかけて、フランス王国、カスティーリャ同君連合(英語版)、ミラノ公国および中央ヨーロッパ諸国の建築家と石工は理論書やドローイング、旅行などを通して専門知識を交換し[5][6]、フランボワイヤン式の装飾とデザインをヨーロッパ全土に広めた[7][8]。著名なフランボワイヤン式の例としてはサント・シャペル(1485年–1498年)の西側バラ窓、ルーアンのサン=マクルー教会(英語版)(1500年–1514年)西側ポーチ、トロワ大聖堂(英語版)(16世紀初期)西面などがある。また、非常に初期の例としては、ヨーク・ミンスター(1338年–1339年)の西側大窓がある[1]。ほかの例としては、ブルゴス大聖堂(1482年–1494年)の元帥の礼拝堂(スペイン語版)、レピーヌのノートルダム寺院(英語版)、シャルトル大聖堂北側尖塔、セゴビア大聖堂(1525年–)がある[9]。
後期ゴシック様式は、ペトル・パルレーシュの手がけたプラハの聖ヴィート大聖堂(1334年–)の建設をもって中央ヨーロッパに持ち込まれる。この聖堂の形式、すなわち豊麗で変化に富むトレーサリーと複雑な網目模様をなすリブ・ヴォールト(英語版)は、大陸ヨーロッパの後期ゴシックに広く用いられ、聖堂参事会教会(英語版)や聖堂、それに匹敵する規模と壮麗さをもつ都市の教区教会に模倣された[10]。葱花アーチの利用もなかんずく一般的だった[11]。
15世紀から16世紀初期にかけ、フランボワイヤン式の形態はフランスからイベリア半島に波及する。同地で発展したイザベル様式(英語版)は、イザベル1世治世下のカスティーリャ王国における国家的建築の支配的形式となった。また、フランボワイヤン式の特徴はポルトガル王国のマヌエル様式にも現れる。中央ヨーロッパでは、フランボワイヤン式やイザベル様式と同時期にゾンダーゴティック(英語版)様式が登場する。
「フランボワイヤン式」という言葉は1843年に、フランスの芸術家であるユスターシュ=ヤサント・ラングロワ(英語版)(1777年–1837年)が最初に[12]、その後、1851年にイギリスの歴史家であるエドワード・オーガスタス・フリーマン(英語版)が用いた[13]。建築史においては、フランボワイヤン式は14世紀晩期にあらわれ、レイヨナン式の次の段階にあたるフランスのゴシック建築(英語版)の最終段階であり、16世紀初期にルネサンス建築が発展するまで優位にあったと考えられている[14]。
フランスにおけるフランボワイヤン式建築の特筆すべき例としては、パリのサント・シャペル西側バラ窓、サンス大聖堂(英語版)とボーヴェ大聖堂(英語版)のトランセプト、ヴァンセンヌのサント・シャペル(英語版)、ヴァンドームのトリニテ修道院(英語版)西側ファサードがある。世俗建築ではブールジュのジャック・クール宮殿(英語版)や、パリのクリュニー館が知られる。 15世紀後半から16世紀初頭にかけては、イングランドにおいて装飾様式や垂直様式(英語版)とよばれる現代的様式がうまれる。