利用者:EULE/火薬陰謀事件メモ/ウィンター兄弟
ウィキペディア フリーな encyclopedia
en:Robert and Thomas Wintour 08:27, 4 February 2021 / ウィンター兄弟
Robert and Thomas Wintour | |
---|---|
Contemporary engravings of brothers Robert (left) and Thomas Wintour, from larger image by Crispijn van de Passe | |
生誕 |
1568 (RW) 1571–72 (TW) Yorkshire, England |
死没 |
30 January 1606年(37 - 38歳没) (RW) 31 January 1606 (aged 33–35)(TW) St Pauls (RW) Westminster (TW), England |
死因 | Hanged, drawn and quartered |
配偶者 | Gertrude Talbot (RW) |
親 | George Wintour, Jane Ingleby |
動機 | Gunpowder plot, a conspiracy to assassinate King James VI & I and members of the Houses of Parliament |
兄ロバート・ウィンター(Robert Wintour、1568年 - 1606年1月30日)と弟トマス・ウィンター(Thomas Wintour、1571年または1572年 - 1606年1月31日)の兄弟は、イングランド史において、プロテスタントのイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件のメンバー。特にトマスは1604年2月の計画最初期から関わっていた主要人物。なお、ウィンターの綴りにはWinter もある。
イングランドのウスターシャーのハディントン・コート(英語版)の出身で、ジョージ・ウィンターの息子として生まれた。母ジェーンはナレスバラ近くのリプリー城に住むイングルビー家の出身で、母方の叔父は1586年に処刑されたカトリック司祭のフランシス・イングルビーであった。父の財産を相続したロバートは敬虔なカトリック教徒として知られ、有名な国教忌避者であるタルボット家の娘と結婚し、よくカトリックの神父らを匿っていた。一方、トマスは知的で教養があり、複数の言語に堪能で弁護士になる訓練も受けていたが、軍人となり、イングランドのために低地地方(ネーデルラント)やフランスにおいて、カトリックの大国スペインなどと戦った。しかし、1600年に転向して敬虔なカトリック教徒となり、1602年から1603年にかけては戦争によるカトリック解放を求めてスペイン政府にイングランド侵攻を嘆願する特使(スペイン反逆事件)を務めた。
1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人である過激派のロバート・ケイツビーは貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方(英語版)で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。 ケイツビーは親戚関係にあり親しかったトマスに計画を打ち明け、1604年2月までには彼は参加を決めた。トマスはスペインの助力を得るため、再び大陸に渡り、この時、ガイ・フォークスと出会い、彼を連れてイングランドに帰国した。トマスは1604年5月の最初の打ち合わせに参加するなど、初期から関わっていた5人の主要メンバーの一人であり、ケイツビーに次ぐ中心人物として計画を動かした。1605年3月には兄ロバートや、兄弟の義弟ジョン・グラントも計画に引き入れた。こうして計画は着実に進められていった。
しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。 当時、ロンドンに残っていたトマスは、フォークス逮捕の報を聞くと、他にロンドンに残っていた仲間たちに指示を出して街からの脱出を促し、しかし、自身は十分に状況を確かめて失敗を確信してから脱出した。その後、兄のいるハディントン・コートを経由して、兄弟でケイツビーらと合流した。仲間たちは当初計画通りにミッドランズで反乱を起こし、最後の抵抗を試みようとしたが、ロンドンの情報が広がったことによってもはやケイツビーらを支持したり協力を申し出る者はおらず、計画は頓挫した。トマスはなおも協力を求めて有力者と交渉を行っていたが、ロバートは一足早く逃げ出した。 11月8日の早朝に、滞在していたスタッフォードシャーのホルベッチ・ハウス(英語版)を、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でケイツビーは射殺され、トマスは銃撃で肩に重傷を負い逮捕された。兄ロバートは数か月に渡り逃亡生活を続けたが、翌年1月9日に身柄を発見され逮捕された。兄弟共にロンドン塔に投獄された。
その後の当局の取り調べでは、首謀者ケイツビーが亡くなった上で、計画の最初期から中心人物として関わっていたトマスの証言は重要視された。現代に伝わる事件の内幕の多くは、このトマスの供述書に依っている。この中では兄ロバートのことは話さなかった。 1606年1月27日のウェストミンスター・ホールにおける裁判ではトマスは自分が巻き込んだだけだとして、兄への慈悲を求めたが、無駄に終わり、共に大逆罪での首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑が宣告された。 兄ロバートは同月30日にセント・ポール教会堂で、弟トマスは翌31日にウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードで、それぞれ処刑された。