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デュチェル人 (ロシア語: дючеры or дучеры)は、だいたいゼヤ川の河口からウスリー川の河口、おそらくさらに下流にまで至る、アムール川中流の岸辺に住む人々のロシア語名である
[1] 。
彼らの民族的な特徴は明らかではないが、普通は、女真人やナナイ人双方、あるいはどちらかと関連したツングース系の人々と推定される。 この民族の名前は、英語では時に"Jucher"人とも書かれる[2]。日本語では、ジュチェル人[3]などの表記がある。
現代の学者たちは、ロシア人探検家がアムール川に現れた1650年ごろ、この地域のデュチェル人の総数はおよそ14,000人であったと推定している。この人数には他の満洲族のグループも含むが、ダウール人とエベンキ人は含めていない[4]。 当時のロシア人探検家によれば、デュチェル人は近縁のゴグール人や、北西の隣人であるダウール人と同様、農耕を行っていた。 栽培していたのは、色々な野菜ともに、ライ麦、小麦、大麦、燕麦、豆、麻であった。デュチェル人は馬と牛を飼っていた。とりわけ豚は食用肉のもととして重要であった。 彼らはまた、狩猟および漁を行った。[1]
17世紀のカザーク(コサック)の報告によると、デュチェル人はそれぞれ60戸以上の家のある要塞化した村(ロシア語: городок)に住んでいた
[5]。
17世紀中ごろ、アムール渓谷に住んでいた部族が設営地で使っていた要塞化の技術と、ナナイ語の単語「гасян」(「gasyan」「ガシャン」) について)</ref> カザークは、家々をユルト (юрта)と表現している。同時代の地域の他の報告からは、現代の感覚でいう「ユルト」(ゲル)だけではなく、さまざまな住居形式を示している模様である</ref>。
清国の愛渾(アイグン、現在の黒河市)要塞の前身はデュチェル族の町であった。ここは元々アムール川左岸に位置し、後の位置の反対側にあった。現在はロシア領で、近隣のグロデコヴォ村にちなんで、現在では考古学者たちに、グロデコヴォ史跡(Гродековское городище)として知られている。[1]
そこは、アムール川に向けてゼヤ川が注ぐ、ブラゴヴェシチェンスクの町の南に位置する。1652年に、エロフェイ・ハバロフはヤクーツクの長官(ヴォエヴォド)D・フランツべコフにこの町(彼はアイチュン(Aytyun/Айтюн)と呼んでいる)の存在を報告している。[1]
考古学者によると、この要塞がはじめに建てられたのは、西暦1000年前後である。[1]
1650年代のはじめには、カザークがダウール人やデュチェル人から「貢税」として集めたり、場合によっては掠奪した毛皮、穀物、家畜が、この地域に領土を拡げたロシア人たちの得た、主な経済的利益であった。ロシア人たちにそれらの物品を与えないために、清国政府は1654年にデュチェル人の農民をアムール渓谷からさらに南の松花江とハルハ川に移住させた。
同様にダウール人は(嫩江(ノンこう)渓谷)に再移住させられた[4]1656年にオヌフリー・ステパノフが松花江下流を訪れると、デュチェル人の村は荒廃していた[6]。
デュチェル人の民族的特徴や彼らの名前の意味(名前を自らつけたものかどうか)さえも議論が残っている。 [7][8]
考古学的には、デュチェル人の文化は、13世紀後半から特定することができる。(例えば、モンゴルが、女真人の金帝国(1115-1234)を倒してから間もなく、アムール川女真族の以前の文化の継承者となった)[1]。
ソビエト大百科事典によると、今日のナナイ人、ウリチ人、アムール川中流および下流のその他のツングース系民族には、デュチェル人の子孫が入り込んでいる[9]。 ロシア人歴史家の en:Boris Petrovich Polevoyは、さらに、ナナイ人と(少なくとも、松花江やウスリー河口周辺の)デュチェル族を同一視している[10]。
その他、おそらくより一般的な見解は、たとえばロシアの考古学者D.P.Bolotinやツングース研究者のA.A.ブリュキンが述べたデュチェル人は女真人の一部だというものである [11][8]。
これは、松花江とハルハ川への移住のあと、彼らは、単純に満洲人と一体となったことを暗示している。
「デュチェル」という言葉の語源も同様に議論されている[8]。(デュチェルという語には、17世紀のロシアの文書には、дючерыやдучеры以外にもいくつかの異なったつづりがある。чючар, джучар, жучер, дючан[5])
いくつかの研究では、女真人の自称であるjušenと関係していることは明らかだと主張されている[5]。[12] 他方では、A.A.ブリュキンはロシア語の「дючер」(Dyucher)は、満洲語で「川沿いの守備」を表すzuche, zuchenから来たのであろうと述べている
[8]。
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