Loading AI tools
新宗教「大本」の教祖 ウィキペディアから
出口 なお(でぐち なお、出口 直、1837年1月22日〈天保7年12月16日〉 - 1918年〈大正7年〉11月6日)は、新宗教「大本」の教祖。大本では開祖と呼ばれている。
でぐち なお 出口 なお / 出口 直 | |
---|---|
1916年(大正5年)撮影 | |
生誕 |
1837年1月22日 丹波国天田郡(現京都府福知山市) |
死没 | 1918年11月6日(81歳没) |
肩書き | 「大本」開祖 |
宗教 | 大本 |
配偶者 | 出口政五郎 |
子供 |
長女・出口よね(米)(大槻鹿造の妻) (この間、三児夭折) 次女・出口こと(琴)(栗山庄三郎の妻) 長男・出口竹造(竹蔵。四方与平の妹はなと結婚) 三女・出口ひさ(久)(福島寅之助の妻。夫妻で反王仁三郎派の大門正道会(八木派)を主宰) 次男・出口清吉(近衛兵) 三男・出口伝吉(大槻鹿造・よね夫妻の養子となり大槻伝吉) 四女・出口りょう(龍)(分家。木下慶太郎が婿入りし出口慶太郎) 五女・出口すみ(澄)(大本二代教主) 養子・出口王仁三郎(上田喜三郎。すみの婿。「大本」聖師/教祖) |
出口なお(以下、なおと表記)は、江戸時代末期から明治時代中期の極貧の生活の中で日本神話の高級神「国常立尊」の神憑り現象を起こした[1]。当時、天理教の中山みきなど神憑りが相次いでおり、なおの身に起ったことも日本の伝統的な巫女/シャーマニズムに属する[2]。当初は京都丹波地方の小さな民間宗教教祖にすぎなかったが、カリスマ的指導者・霊能力者である出口王仁三郎を娘婿としたことで、彼女の教団「大本」は全国及び海外に拡大した[3]。大本は昭和前期の日本に大きな影響を与え、現在もさまざまな観点から研究がなされている[4]。
なおは1837年1月22日(天保7年12月16日)、大工の父/桐村五郎三郎と母/そよの長女として福知山藩領の丹波国天田郡上紺屋町(現福知山市字上紺屋町)に出生[5]。折からの天保の大飢饉のため両親は減児を相談したが、気難しい姑が断固反対し生を得ることが出来た[6]。だが苗字帯刀を許されたほどの桐村家は五郎三郎の放蕩により没落[7]、五郎三郎はなおが11歳(10歳とも)の時コレラで急死した[8]。なおは下女奉公に出て働くようになる[9]。
嘉永2年(1849年)には福知山藩主朽木綱張より集落の孝行娘として表彰されるほど真面目な働きぶりが評判だった[10]。米屋や呉服屋など幾度か勤め先を替えたが、どの家々でも信頼されると同時にシャーマン的素質も見せることがあった[11]。また信仰心の篤さは幼少時から変わらなかった[12]。江戸時代末期、福地山や綾部を含め各地でお蔭参りが発生しており、なおも何らかの影響を受けた可能性が指摘されている[13]。
1854年(安政元年)、綾部の出口ゆり(なおの叔母)の強い要望により、養女となって出口家を相続するが、最初から財産争いに巻き込まれた[14]。出口家菩提寺に10歳のなおが初代出口政五郎の喪主になったことが記録されており、既に入籍済みだった可能性もある[15]。
1855年(安政2年)3月20日(旧2月3日)には宮大工の四方豊助(婿養子となり出口政五郎の名を襲名)と結婚する[16]。政五郎は弟子達に慕われる名大工だったが楽天家で浪費家という欠点があり、資産家だった出口家は数年で没落した[17]。なおは出稼ぎや饅頭屋などの内職をして家計を支えた[18]。
子供11人をもうけるが、3人は夭折し、3男5女が成人した[19]。全員を家で養うことは出来ず、10歳にならないうちにほとんどの者が奉公に出ている[20]。五女(後の大本二代目教主)出口すみ(澄)は1883年(明治16年)2月3日(旧12月26日)に生まれた[21]。
1887年(明治20年)3月、負傷して寝たきりになっていた政五郎が死亡する[22]。なおは52歳、32年間の結婚生活だった[23]。さらに嫁いだ長女や三女が一時的に発狂、養女に行った先の本宮村も、殺人・強盗殺人・偽札造りにより終身刑となった者が1人ずつ、自殺者が5人、まともな家は2、3軒しかなかったといわれる。長男は自殺未遂のあと失踪、次男は近衛兵として徴兵され、後に戦死[24]、次女も駆け落ちするなど、子供たちを巡っても苦労を重ねた[25]。なおは「地獄の釜の焦げ起こし」と呟いたほどだった[26]。大本開祖としての自伝でも「この世にはまずない苦労をいたした」と回顧している[27]。「直は名刀、政五郎は砥石」と表現され、夫・政五郎の無責任な態度や行動がなおを人間的に成長させ、大本の基盤を作ったとする[28]。
なおの住む丹波・綾部町は宗教色の強い土地で、明治に入ると従来の神道や仏教に加え天理教、黒住教、妙霊教、金光教、キリスト教が進出していた[29]。当時の綾部は郡是製糸が明治29年に、綾部製糸が大正2年にそれぞれ製糸工場を作っており、半農半商の田舎町から蚕糸を中心とする資本主義的商品経済の町へ急速に転換していた[30]。
三女・久を治癒したのが金光教亀岡教会長・大橋亀吉であり、これがなおと金光教の出会いとなる[31]。後の神懸かりに、同教が説いた金神の影響も指摘される[32]。
1892年(明治25年)1月30日(辰年旧正月元旦)、56歳のなおは「艮の金神、元の国常立尊」と宣言する神と出会う霊夢を見た[33]。2月3日(旧正月5日)、本格的に「艮(うしとら)の金神」が帰神(神懸かり)した[34]。この直に帰神(神懸り)した艮の金神こそ、この世界を創造・修理固成した元の親神である国常立尊である。大本では、この日を開教の日としている[35]。
なおはすみに、「西町(長女の嫁ぎ先)に行って36体の燈明を供えて『ご祈念せい』と言うて来て下され」と言った。目撃したすみは、その時の母の声には普段と違う威厳があり、染み透るような力だったと回想した[36]。本来の美しい声と神の威厳のある声が交互に出るため、まるで自問自答しているようだったという[37]。帰神状態となったなおは、まず13日間の絶食と75日間の寝ずの水行を行う[38]。同居していた四女・龍と五女・すみのうち、すみにだけ村の各場所に塩をまかせる等の用事を頼んだ[39]。こうした奇行は周囲から「狸か狐がついた」と思われ、当初は大目に見られた[40]。
やがて放火犯と間違われて警察に拘留され、釈放されるも自宅の家の座敷牢に40日間押し込まれる[41]。入牢中になおは、神に「声を出さないで」と頼んだところ、神は「ならば筆を執り、神の言葉を書くがよい」告げた。なおは、落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「御筆先/おふでさき」となった[42]。彼女は文盲であったが、日が暮れて、部屋が真っ暗になっても、書き続け、自動書記により没するまで20年間あまりで半紙20万枚を綴ったという[43]。ほとんど平仮名で記された内容は「さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんのよになりたぞよ」「つよいものがちのあ九まばかりの九にであるぞよ」という痛烈な社会批判を含んだ終末論・黙示録であった[44]。のちに、平仮名を漢字に置き換えて娘婿・出口王仁三郎が発表したのが「大本神諭」である[45]。
なおはわずかな全財産を長女の娘婿に譲ることで座敷牢から出ることが出来た[46]。当初、なおは自分に懸かった神の正体がわからず、また「艮の金神(実際は地上で最も高位の神・国常立尊)」が当時恐れられていた祟り神だったこともあって不安を抱いていた[47]。僧侶や易者を頼ったが力にならず、金光教に相談している[48]。天理教では天狗と判定された[49]。しかし病気治療や日清戦争の予言により「綾部の金神さん」として地元の評判を呼び、小規模の信者グループが形成された[50]。一方、金光教もなおに注目し、彼女を利用して綾部に進出しようと考えていた[51]。1894年(明治27年)10月、金光教の傘下として最初の会合が開かれ、公認の広前(布教所)が出来たことで警察の干渉から逃れることができた[52]。だが人類の改心と三千世界の立替え立直しを唱えるなお/艮の金神(国常立尊)と、日常生活における信仰を説く金光教は根本的に合致せず、両者の関係は次第に悪化する[53]。なおの霊能力に惹かれて支援者となった金光教信者もおり、彼らが独立を目指すなおを支援して初期の幹部となった[54]。1897年(明治30年)4月4日(旧3月3日)、綾部市裏町に住む信者の倉に移り、初めて単独で「艮の金神」を祭った[55]。
1898年(明治31年)8月、事前に幾度か啓示されていた上田喜三郎(王仁三郎)と初体面する[56]。後に王仁三郎は大本事件における精神鑑定で「それは偉い人と思ひました、非常に人を圧する様な偉い人で、そして何とも言えない神様が憑いて居ると思ひました」となおの印象を語っている[57]。ところが、喜三郎の所属が稲荷講社であることになおが不信感を持ってしまい、初対面は物別れに終わった[58]。それでもなおは考えを改め、再び喜三郎を綾部に招いた[59]。喜三郎も綾部行きを希望していた[60]。1899年(明治32年)7月3日、喜三郎は鎮魂帰神法で「艮の金神」は「国武彦命(後に国常立尊と判明)」と見分けた[61]。
喜三郎は新教団「金明霊学会」の会長、なおは教主となり、後の大本の原型が誕生した[62]。稲荷講社の傘下に入ることで、合法的に集会を行うことも可能になった[63]。彼の手腕と能力を高く評価し、また、神の啓示を受けて、なおは、後継者と決めていた五女・出口すみと結婚させることにする[64]。1900年(明治33年)1月、喜三郎はすみと養子結婚。1904年(明治37年)出口王仁三郎と改名した[65][66]。なおは「これで大本の基礎固まれり」と喜んでいる[67]。こうして王仁三郎の神道の知識を得て新教団の教義が確立していく一方、なおの中には違和感も存在していた[68]。そもそもなおと信者に見られる強烈な排外思想・民族主義・欧米の風習への警戒感は王仁三郎になく、性格も正反対であり、二人の対立は必然だった[69]。
世継ぎに決めていたすみと王仁三郎が結婚したことでなおの役割は軽減し、基本的に筆先と神事にすべてを捧げる生活が始まった[70]。当初、教団は国常立尊(男神)が懸かったなおを「変性男子」、豊雲野尊(国常立尊の妻神)が懸かった王仁三郎を「変性女子」と定めており、現実での養母・養子婿関係は宗教的には夫婦関係という微妙な状態だった[71]。なおに天照大神が、王仁三郎にスサノオが懸かって「火水の戦い」という大喧嘩をしたことがある[72]。独断で教団の法人組織化・公認化を進めようとした王仁三郎を反省させるべく、なおは綾部近くの弥仙山の中の宮に「岩戸ごもり」として篭ったこともある[73]。さらに警察の干渉と教団の複雑な人間関係が王仁三郎を苦しめた[74]。「お筆先」を表面的な文字通りに解釈する原理主義に陥る者も多く[75]、彼らは開明的な王仁三郎を激しく攻撃した[76]。すみと結婚して教団の後継者を望む者もおり、権力争いという一面や[77]、金光教由来信者の反発もあった[78]。一方で王仁三郎の方も、当時の信者を痛烈に批判している[79]。母と夫に挟まれたすみは対応に苦慮した[80]。なおと王仁三郎の対立は旧道と新道の対立という「型」という側面があり、すみによれば大喧嘩のあとに談笑する光景がしばしば見られた[81]。また反対派が王仁三郎の排除を訴えなおが神に相談すると、神は娘婿を庇い続けたという[82]。二人の対立には宗教的な意味合いが存在したのである[83]。
1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、信者達は現世の根本的な改革が行われると説いた[84]。教団は宗教的ナショナリズムも重なって終末論的な盛り上がりをみせたが、王仁三郎は冷めた目で彼らを批判している[85]。王仁三郎の筆先にも「今度の戦争は門口である」と信者達の先走りを警告する文面が出ている[86]。その後、日露戦争が日本の勝利で終わると立替熱が冷め、また警察の干渉も厳しくなって失望した信者が次々に教団を去った[87]。半面、火水の戦いといわれたなおと王仁三郎の対立は終息した[88]。
1906年(明治39年)9月、王仁三郎は妻子を残して綾部を出、京都に設置されたばかりの神職養成機関(皇典講究所)に入学、教団合法化を目指して活動を開始する[89]。王仁三郎が去った教団は出口家しか残らないほど衰退した[90]。筆先に用いる紙すら用意するのに苦労し、家財道具を売らねばならなかったという[91]。「(王仁三郎が)この大本を出たらあとは火の消えたように、1人も立ち寄る人民はなくなるぞよ。」と啓示されていた通りになった[92]。
1908年(明治41年)3月、王仁三郎が教団に戻ると再び信者が集まりだした[93]。彼に懸かる「坤(ひつじさる)の金神」を公式に祭ったことで幹部信者の態度も変わり、教団経営の一切は王仁三郎にまかされた[94]。大本はメディア活動を展開し、新たな信者層を開拓[95]。財政状況は劇的に改善したが、直は質素な生活を続ける[96]。贅沢を好まず、農村の生活そのものを送り、神事や啓示の執筆に専念した[97]。
1910年(明治43年)12月26日、王仁三郎の正式な出口姓改名・入籍を待って出口家当主を譲る[98]。なおは人生を通じて大きな病気・怪我をしたことがなかったが、足を挫いたことから梅の杖に頼るようになり、畑仕事をやめた[99]。1916年(大正5年)10月4日、出口家・教団幹部と共に家島諸島神島(上島)に参拝する[100]。夜、なおの筆先に「未申(ひつじさる)の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊(艮の金神)は地の先祖であるぞよ」という神示があり、婿養子の王仁三郎こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る[101]。王仁三郎は、この時を境になおは未見真実から見真実となったとしている[102]。なかでも重要なことは、なおの神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に審神者することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある[103]。
1917年(大正6年)、大本は機関誌「神霊界」を発行、筆先は「大本神諭」として発表され注目を集めた[104]。教団は急速に拡大し、整備拡張も進んだ[105]。海軍機関学校教官だった浅野和三郎はなおと対面し、カリスマ性に魅せられて大本に入信した[106]。その一方、なおは筆先を書かなくなり、自分の役目が終わったことを王仁三郎に告げる[107]。ある日、王仁三郎に背負われて神苑を巡り「結構でした。ご苦労でした」と感謝の言葉をかけた[108]。側近には教団の発展を褒めると同時に「1人でも誠の者ができたら、どんなにかこの胸の中が楽になるのだが」と心中を語る[109]。
1918年(大正7年)11月5日、親しい信者数名に「今夜が峠」と呟き、遅くまで談笑した[110]。翌日早朝に倒れ、午後10時30分に死去[111]。享年83[112]。綾部の天王平に埋葬された[113][114]。 浅野を中心とする一派はメディアを通じて終末論を宣伝、さらに多数の軍人・知識人が入信し、危機感を抱いた大日本帝国政府は不敬罪と新聞紙法違反を理由に宗教弾圧を行った(第一次大本事件)[115]。この弾圧によりなおの奥都城は縮小改装を余儀なくされた[116]。同時期に『大本神諭』は発禁処分となった。王仁三郎は『霊界物語』を口述、神諭の直接的な表現を物語・比喩・暗喩という形に置き換えて『大本神諭』とならぶ根本教典とした[117]。だが政府は大本に対する警戒を緩めず、1935年(昭和10年)の第二次大本事件で徹底的な宗教弾圧を加えた[118]。なおの墓は暴かれて柩を共同墓地に移され、「衆人に頭を踏まさねば成仏出来ぬ大罪人極悪人」として特別高等警察により腹部付近に墓標を建てられる[119]。当局は四女・龍子の墓石から「出口直子四女」のうち「直子」の文字を削り落とした[120]。こうした大日本帝国政府の姿勢は「人間の礼節すら失っていた」「権力の大本に対する憎悪を示した」と評される[121]。現在、なおの墓は再建され王仁三郎夫妻と共に埋葬されている[122]。
出口なおは幕藩体制の崩壊から明治・大正という激動の時代に生きた。82年間の生涯のうち、2/3を社会の最底辺で過ごした、無口で辛抱強い無名の女性だった[123]。だが「神懸かり」後のなおは娘婿・出口王仁三郎とは違ったカリスマを持ち、晩年は初対面で圧倒され心酔した者も多い[124]。一方、素朴で純粋な文明批判論は時に厳しい終末論・反文明論・天皇制否定論に飛躍した[125]。一種の革命思想であり[126]、その千年王国的救済思想は従来日本宗教の中でも特に徹底している[127]。なおはあくまで神の言葉を伝えた預言者であり、神学や言霊学に深く通じた王仁三郎とは役割が違ったと言える[128]。なおの終末論・社会批判・黙示録的予言は王仁三郎のコミュニケーションと経営の才能によって世に出た[129]。2人は巫女と山伏(解釈者)という伝統的なシャーマニズムの役割を担いつつ、「日本と外国の戦いが綾部の大本にはして見せてあるから、男子(開祖・なお)と女子(王仁三郎)の戦いで、世界のことが分る大本であるぞよ」という独特の教義を展開したのである[130]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.