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日本の女性脚本家、作家 ウィキペディアから
内館 牧子(うちだて まきこ、1948年9月10日 - )は、日本の脚本家、作家、作詞家。
東日本大震災復興構想会議委員。東京都教育委員会委員、ノースアジア大学客員教授。元横綱審議委員会委員(2000〜2010年)。学位は造形学士(武蔵野美術大学)、修士 (文学)(東北大学)[1]。
秋田県秋田市[2][3]土崎港生まれ[4][5]。父親は岩手県盛岡市、母親は秋田市出身[6]。日本冷蔵(ニチレイ)に勤めていた父の転勤で、4歳から新潟県、小学校3年から高校2年までは東京都大田区雪谷で育った[2]。新潟では幼稚園に馴染めず、いじめられて退園[2]。それ以来ずっと家で過ごすうちにラジオの大相撲中継を聞くようになった[2]。きっかけは、いじめられていた時にいつも助けてくれた男の子の体が大きかったこと。これが原体験となり、体の大きな男の子は優しいという意識が刷り込まれたという[2][7]。東京都立田園調布高等学校を経て、1970年(昭和45年)、武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科卒。
大卒後は三菱重工業に入社して横浜製作所に勤務した。当初は2、3年勤めて寿退社するつもりだったが当てが外れた[8]。また、仕事の上でも満たされず、三味線や小唄など習い事をたくさんしていたという[8]。床山を志願して日本相撲協会に自らを売り込んだり、全国の新聞社に相撲記者の採用がないか問い合わせていたのもこの時代で、すべて断られたときには29歳になっていた[8]。
その後、会社帰りにシナリオライターの学校に通うようになり、ある新人コンクールで佳作[9]をもらったことをきっかけに、NHKの新人脚本家養成講座の生徒に選ばれた[8]。そして何のあてもないまま35歳で三菱を辞めたが、養成講座の生徒井沢満に紹介された小学館の漫画雑誌の仕事を手始めに、NHKの番組や講談社の仕事などをこなしつつ約4年間を過ごし、1988年(昭和63年)40歳にして脚本家デビューを果たした(『バラ』NTV)[8]。当初は素人時代から使っていた岸牧子の筆名で活動。出世作は1990年のドラマ『想い出にかわるまで』[8]。代表作に、NHK連続テレビ小説『ひらり』、『私の青空』、大河ドラマ『毛利元就』などがある。
2000年より10年間大相撲の横綱審議委員会委員を務めた。この間、2003年の春より3年間東北大学の大学院で大相撲を研究、2006年より秋田経済法科大学(現・ノースアジア大学)客員教授、2007年より武蔵野美術大学映像学科客員教授としてシナリオ制作の実習授業を担当。
2011年4月東日本大震災復興構想会議委員に就任。
2017年5月7日、東京都内で第7回「忘れられない看護エピソード」表彰式に、ギプスをはめた車いす姿で出席。右足骨折で全治6ヶ月の重傷を負ったことが明らかになった[10]。
近年は週刊誌の連載コラムやインタビューなどが主な仕事となっている。
武蔵野美術大学在学中はラグビー部の(初代女子[2])マネージャー[12][13]、三菱重工では同社の硬式野球部マネージャーを務めた[14]。
大の格闘技ファン。特に好角家として知られるほか、プロレスにも造詣が深く、2009年から6年間東京スポーツ制定のプロレス大賞で特別選考委員を務めた[15]。
2000年大阪府知事に初当選した太田房江が、大相撲大阪場所の土俵上で大阪府知事賞を授与すると発言して日本相撲協会から拒否されたことに関しては、従来より「大相撲における土俵の女人禁制」を守るべきとの考えから協会側の決定を尊重すべきとした。その翌年、朝日新聞紙上で再び持論を繰り返した太田府知事に対して同紙上で反論したことなどをきっかけに大学院での大相撲の研究を決心し[16]、志望校を定めて受験勉強を始めた[17]。
2002年9月、東北大学大学院文学研究科修士課程の社会人特別選抜[18]を受験して合格[7][19]。翌春、人間科学専攻(宗教学)へ入学し、『神事としてみた相撲』を研究テーマに宗教学を専攻。3年間仙台を中心に生活を送り[20]、2006年3月に修士課程(宗教学)を修了(修士〈文学〉)した[21]。同年、修士論文の趣旨を土台にした著書『女はなぜ土俵にあがれないのか』を刊行。相撲の歴史と伝統について宗教的儀式として論じ、男女共同参画の観点をこの種の領域に対し文化論争抜きに持ち込む風潮に異を唱えた。
東北大学大学院在学中の2005年、東北大学相撲部より招聘され「現役院生監督」となった[22]。これ以降、学生相撲やアマチュア相撲界、また他大学の監督、コーチ、学生相撲連盟などにも人脈を広げた[23]。
太田府知事の「土俵女性差別」発言から約半年後の2000年9月、当時の時津風理事長(元大関・豊山)から、女性初となる横綱審議委員会(以下、横審)委員を委嘱され、約10年間活動した。この間、東京両国国技館の土俵下の席を通年で購入し、場所中12、3日間は会場に足を運んだほか、稽古総見は朝7時から始まる幕下から見るようにした[24]。内館の委員就任に最も反対していた協会幹部のひとりも、3年後には「今後も相撲界のためによろしく」と、直接内館に言葉を掛けた[25]という。
2002年1月場所前(同年1月7日)に行われた横審稽古総見の際、第67代横綱・武蔵丸が、前日までプロレス・ラグビー観戦をしていながら、当日左手首の故障を理由に稽古総見を欠席したことに対し、「社会人として最低。あんな横綱に優勝してほしくない」などと厳しく非難したほか、武蔵丸を庇った師匠の武蔵川親方(第57代元横綱・三重ノ海) [26]に対しては「気分転換をしても構わないが、それならば公式行事をサボらないで欲しい」と抗議して時津風理事長に聞き入れられ、以後の横綱・大関は入院でもしていない限り、「稽古総見は原則的に出席すべし」と決まった[27]。この一件がきっかけとなって「横審の魔女」の異名を冠するようになった[28]。
2003年1月場所で2場所連続優勝を果たし、場所後に第68代横綱に昇進した朝青龍について、同場所後の横審定例会では「今回、昇進させなければ、今後誰も横綱に昇進させられなくなってしまう」[29]と述べて昇進自体には賛成したが、同時に「問題は『客のために相撲を取っているんではない』などの言葉。品格をしっかりと直してほしいと注文した」[29]とも述べて、師匠の高砂親方(元大関・朝潮)に対しても、横綱の品格面で一層の指導を求めた。その後も、朝青龍の常識外れの行動・言動についてその都度猛批判しており、「朝青龍の天敵」としてマスコミに大きく取り上げられていた[30][31]。
もっとも内館は、私的な立場として「私はプロのスポーツ選手として朝青龍をすごく認めますし、超が3つつくほど好き」「アスリートとしては、150%好き」と好意をよせていた。しかし普段の辛口のコメントについては「でも大相撲には相撲道の精神がある。それを無視し続けていた朝青龍と、ビシッとした態度を全く取らない師匠(高砂親方)がいるから、私は毎回鬼のように怒らなきゃならなかった」「私自身朝青龍に対し『現役力士』として、『横綱』としても一切認めていない」[32]などと報道陣に述べた経緯がある。
2008年12月、心臓弁膜症で倒れ緊急入院・手術のため約4か月間治療に専念[33]。翌2009年4月29日の大相撲稽古総見で復帰の際、朝青龍の方から内館に近寄り「先生大丈夫ですか?心配しましたよ。元気になって良かったですね」と語りながら笑顔でハグされると、内館も思わず笑みを返す場面があった。その後内館は、記者陣に対し「(朝青龍は)まるで(豊臣)秀吉みたいな『人誑(たら)し』だわ。『天敵』の私を喜ばせるんだから」と皮肉交じりにコメントしている[34]。
2010年1月25日をもって、横審委員としての任期を満了した。同日最後となる横綱審議委員会の席で内館は、1月場所中の1月16日に泥酔暴行騒動を起こした朝青龍に対して「日本相撲協会は余りにも朝青龍に甘過ぎる。今回も『厳重注意』で済む問題じゃない。普通の企業なら間違いなくクビ、又次に何かやったら『引退勧告』すべきですよ」と苦言を呈している[35]。 ところがその数日後、朝青龍が暴行した相手は当初報道された個人マネージャーではなく、一般人だった事が発覚。内館の横審委員退任から僅か10日後の同年2月4日、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、突如現役引退を表明した。その際に内館は「朝青龍が自ら引退したことはベストの選択だったと思う。今後は日本であれ外国であれ、その国と業界及びその仕事に対し、敬意を払うことを忘れないでほしい」等とコメントを述べている[36]。
なお、2011年3月の本場所中止の要因となった大相撲八百長問題に関しては、「全く知らなかった」「夢にも思わなかった」と言う立場を貫いている。
『将棋世界』2013年7月号において、内館が自身の連載コラム「月夜の駒音」でコンピュータ将棋ソフトウェア「Puella α」と塚田泰明の対局を取り上げた際、ソフトウェア開発者の伊藤英紀が、その内容の中に「名誉を毀損し、侮辱する記載」があったとして、日本将棋連盟と同誌の発行元であるマイナビに損害賠償と謝罪を要求した。しかし両者ともこれに応じなかったため、同年12月に内舘、将棋連盟、マイナビの三者は伊藤より名誉毀損で提訴された[37]。裁判の結果、2014年12月に、被告は賠償金を支払って謝罪記事を載せた上で問題の記事を撤回するという、全面的に敗訴と言える内容で民事訴訟法の規定による和解をしている[38]。
尚、連載の内容から内館は「行き所のない駒が禁じ手である」という将棋の基本的なルールさえ理解していないことがうかがわれ[要出典]、実際には将棋に興味はなく、単なる「創作活動の手段」としてしか見ていない[要出典]。
2015年12月号を以て、「月夜の駒音」の連載を終了した。
身長は168cmである。
脚本担当歴のある『連続テレビ小説』については、自身が手掛けていない作品も視聴しており、「朝ドラはすごく面白いと思う。自分だったらこうするのにとかは思わない。毎回楽しんで見ている」と述べている[39]。
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