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内田 高子(うちだ たかこ、1942年8月22日 - )は、日本の女優、元歌手である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。出生名は同じ[2][3][8]。1963年(昭和38年)に歌手としてデビュー、1964年(昭和38年)から本格的に女優として活動を開始する[2][3][6][7][8][9][10]。黎明期の成人映画界のスター女優であり、「成人映画界のソフィア・ローレン」と呼ばれた[2][13]。1971年(昭和46年)に映画監督の向井寛(本名・向江寛城)と結婚・引退、本名は向江 高子(むかえ たかこ)になる[14]。夫・向井の没[15]後1年を経た2009年(平成21年)、テレビドラマ『任侠ヘルパー』に向江 たかこ(むかえ たかこ)名義で出演した[10][14]。
うちだ たかこ 内田 高子 | |
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本名 | 向江 高子 (むかえ たかこ) |
別名義 | 向江 たかこ (むかえ たかこ) |
生年月日 | 1942年8月22日(82歳) |
出生地 | 日本 千葉県銚子市 |
身長 | 162cm |
職業 | 女優、元歌手 |
ジャンル | 劇場用映画(時代劇映画・成人映画)、テレビ映画 |
活動期間 |
1962年 - 1971年 2009年 - |
配偶者 | 向井寛 (1971年- 2008年 死別) |
著名な家族 |
長男 向江寛尚 長女 向江玲香 |
事務所 |
東芝音楽工業 岡プロダクション テイチクエンタテインメント kitokito |
公式サイト | kitokito.tv/mukae_profile |
主な作品 | |
楽曲 『粋なネグリジェ』(1963年) 『あなたと死にたい私』(1970年) 映画 『肉』(1965年) 『黒い雪』(1965年) 『徳川女系図』(1968年) |
1942年(昭和17年)8月22日、千葉県銚子市に生まれる[2][3][8]。ウェブ上にみる誕生年には諸説あり、Yahoo!映画では「1940年」(昭和15年)[16]、DrillSpin等では「1943年」(昭和18年)[17]とされているが、『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)や『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)、およびKINENOTEでは「1942年」(昭和17年)としている[2][3][8]。
1961年(昭和36年)3月、銚子市立銚子高等学校を卒業し、建設会社に入社する[2][3]。満20歳になる1962年(昭和37年)、イタリア・フランス合作映画『セクシーの夜』(監督エットーレ・フェッキ)を東和が配給・公開するにあたり、同作のキャンペーンとして「ネグリジェ・コンテスト」を開催、これに応募して一位を獲得する[2][3]。同作は同年12月23日に公開され[18]、翌1963年(昭和38年)には東芝音楽工業(のちのEMIミュージック・ジャパン、現在吸収されてユニバーサルミュージック合同会社)に入社、同年8月に発売されたシングル『粋なネグリジェ』(作詞松井由利夫、作曲上條たけし、編曲安形和巳)で歌手としてデビューした[2][3]。同作は松井の歌詞が過激とされ、放送禁止とみなされてヒットはしなかった[2]。
『日本映画俳優全集・女優編』および『芸能人物事典 明治大正昭和』には、1964年(昭和39年)、新藤孝衛が自らの監督作『セクシー東京'64』の主役に抜擢され、映画界にデビューした旨の記述があるが[2][3]、その前年の歌手デビューの年、シングル発売の直後である1963年9月18日に放映された連続テレビ映画『特別機動捜査隊』第99回『大いなる代償』(監督石川義寛)に、すでにゲスト出演している[10]。『セクシー東京'64』はさらに遅れて、1965年(昭和40年)3月、『肉体のドライブ』と改題され、成人映画として劇場公開された[2][3][6][9]。「主演デビュー作」が製作されて公開されるまでの間に、1965年初頭に放映された大島渚の連続テレビ映画『アジアの曙』第7話・第8話に出演したほか[10]、前年末にすでに完成していた大蔵映画が製作・配給した成人映画『雌 めす 牝』(監督小川欽也)、東映京都撮影所製作の時代劇映画『忍法忠臣蔵』(監督長谷川安人、1965年2月25日公開)に出演、それぞれ公開されている[6][9][19]。なかでも『雌 めす 牝』は、大蔵映画が初めて本格的にいわゆる「ピンク映画」に取り組むべく300万円の低予算で製作した作品であったが、同社が配給する一般映画や洋画を含めて、当時最大のヒットを記録した[20]。大蔵映画が同年4月にいわゆる「ピンク映画」の興行網「オーピーチェーン」を提唱したのは、同作のヒットを受けての政策であった[1][20]。大蔵映画は、同年同月、内田を主役に『黒・白・黒?』(監督小川欽也)を公開、翌5月には新東宝映画も柳家小せん (4代目)を石松、内田を相手役に起用して『好色森の石松』(監督大貫正義)を発表[5][6][9]、内田は「かくれたドル箱スター」と呼ばれる存在になっていった[21]。
のちに夫となる向井寛との出会いもこの時期であり、今井正、佐伯清に師事し教育映画『二人の少年』(1962年)で監督に昇進した向井は[22]、同年、東京芸術プロダクション(現在の向井プロダクション)を設立して独立、その第1作として『肉』を製作・監督、主演女優に内田を起用、同作は国映が配給して同年5月に公開された[2][6][9]。同作の撮影中、向井から「君の売り物は脇毛なのだから剃るんじゃないぞ」と言われたことで[23]、脇毛がセールスポイントとなった。以降“脇毛女優”としてピンク映画で一時代を築くことになる[23]。同年6月9日に日活が配給して公開された武智鉄二監督の『黒い雪』は、わいせつ図画であるとして武智と日活の配給部長が起訴されたが、同作に出演していた内田は、紅千登世、松井康子、村田知栄子らとともに警視庁への出頭を求められている[24]。この黒い雪事件は1969年(昭和44年)9月17日、東京高等裁判所で無罪が確定したが、新映倫(映画倫理管理委員会、現在の映画倫理委員会)を通過した劇場用映画が刑事罰に問われた事件として知られる[25]。
前年の『雌 めす 牝』では「内田高子(東芝レコード)」とクレジットされていた内田は[19]、同年には東芝を離れ、岡雅美の岡プロダクションに所属、同社の専務取締役を務めた[26]。中島貞夫や倉本聰が脚本を執筆し同年10月1日に放映を開始した連続テレビ映画『勝海舟』(製作毎日放送)、国際放映が製作しフジテレビジョンが同年10月5日に放映した連続テレビ映画『刑事』の第1回、五社英雄監督作にも、内田はそれぞれ出演[10]、ジャンルを超えた活動を行った。
『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男とともに、内田の名を挙げている[1]。
同年11月に公開された『色舞』、同年12月7日に公開された『破戒女』、翌1966年(昭和41年)1月に公開された『人妻の予定日』に主演し、向井寛の監督作への連続主演が始まった[2][6][9][15]。同年5月に公開された『二股かける女』(監督向井寛、配給大蔵映画)は、自らが所属するとともに専務取締役の肩書きをもつ岡プロダクションの製作であり、主演するとともに自らがプロデュースを手がけた[2][6][9]。それとともに歌手としてもテイチク(現在のテイチクエンタテインメント)に移籍し、シングル『女が爪を切るとき』、同『ベッドで煙草を吸わないで』を発表する。『ベッドで煙草を吸わないで』は、同年4月に沢たまき(日本ビクター)が歌ってヒットした楽曲のカバーである。向井作品に多く主演する一方で、1968年(昭和43年)には、日本のメジャー映画会社初の成人指定映画といわれる[27]石井輝男監督の東映ポルノ『徳川女系図』に出演して曽雌定子を演じた。同作には内田のほか、谷ナオミ、辰巳典子、火鳥こずえ、祝真理ら、いわゆる独立系のピンク映画女優が多数出演しており、興行的に成功を収めた[2][6][7][8][9][27]。これに触発された日活も、当時はまだロマンポルノ(1971年 - 1988年)を開始していなかったが、児井英生がプロデュースした『女浮世風呂』(監督井田探、同年7月10日公開)や『鮮血の賭場』(監督野村孝、同年8月14日公開)、高橋昌也の相手役として主演した『艶説 明治邪教伝』(監督土居通芳、同年7月10日公開)といった作品に内田を出演させた[2][6][8][9]。
1969年(昭和44年)5月、向井寛の『禁じられたテクニック』(主演可能かづ子、1966年)が『ナオミ』(イタリア語: Naomi)の題でイタリアで公開されたが[28][29][30]、表現が過激であるとして上映中止となる事件が起きる[29][30]。このときの「ローマ法王に抗議したい」という向井の発言とともに、その恋人が内田であるとして報道された[30]。ミリオンフィルム(社長・加来章、1968年8月1日設立)が配給し、同年9月8日に「ミリオンフィルム創立記念超大作」として公開された『日本処女暗黒史』(監督向井寛)に、デヴィ夫人をモデルにした人物を演じて主演したのを最後に、出演作が記録にみられなくなる[2][3][5][6][7][8][9][10][31][32]。ただし同作から引退時期までの作品記録が掲載されている『映画年鑑 1973』において、独立系の映画作品については監督名以外記載されておらず、この時期の出演者が概して不明である[32]。1970年(昭和45年)2月1日には、テイチクのレーベルであるユニオンレコードからシングル『あなたと死にたい私』、同年7月1日には同レーベルからシングル『ベッドで煙草を吸わないで』を再発売した。翌1971年(昭和46年)、向江と結婚した[2][3]。その後は1972年(昭和47年)まで、バーの経営やキャバレー出演等も行なっていたが、一旦、引退した[2]。
長男の向江寛尚は、同年11月11日に生まれ、法政大学経済学部を卒業後、プロゴルファーになった[33]。1995年(平成7年)9月23日に公開された『あした』(監督大林宣彦)に長女の向江玲香が出演した[34]。玲香は、その後、むかえれいかの名で、向井寛の監督した『GOING WEST 西へ…』(1997年)、同じく『故郷』(1999年)にも出演している[35]。『GOING WEST 西へ…』には内田も出演した[14]。
2008年(平成20年)6月9日、夫の向井と死別する[15]。その一周忌を目前とした2009年(平成21年)3月14日 - 同年5月15日にラピュタ阿佐ヶ谷で行なわれた「60年代まぼろしの官能女優たち」の特集上映で主演作『淫紋』(監督向井寛)が16mmフィルムヴァージョンで上映され(同年3月14日 - 同20日)、初日の同年3月14日にトークイベントの舞台に立つ[13]。同特集上映では『女王蜂の欲情』(監督小川欽也)も上映された(同年3月21日 - 同27日)[13]。その後、向井の一周忌を経て、同年9月18日に公開されたR18+指定の劇場用映画『熟女 淫らに乱れて』(監督鎮西尚一)に出演する[36]。同時期にフジテレビジョンが放送した連続テレビドラマ『任侠ヘルパー』の第8回 - 第11回に向江 たかこ名義でセミレギュラー出演した[10][14]。2012年(平成24年)8月17日・18日、向井と内田の最初の作品である『肉』および『女王蜂の欲情』が銀座シネパトスで上映され、内田は、後者の監督である小川欽也とともにトークイベントに出演した。
クレジットはすべて「出演」である[2][3][5][6][7][8][9][10][11][31][32]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[5]。
日本音楽著作権協会の作品データベース検索結果を参考にした一覧である[12]。特筆以外は東芝音楽工業である。
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