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伊達 村豊(だて むらとよ)は、江戸時代前期から中期にかけての外様大名。伊予国伊予吉田藩3代藩主。院使・勅使・公家衆の饗応を複数回担当している。
天和2年(1682年)11月8日、伊予宇和島藩士・伊達宗職の次男として宇和島にて誕生。母は里見氏。幼名は金之助。初名は宗春(むねはる)。
元禄6年(1693年)、宇和島藩の支藩である吉田藩の藩主で従兄の伊達宗保に子がなかったため、その養子となり、12月7日に12歳で3代藩主となった。12月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見し、父の遺品・備前基光の刀を献上した。元禄10年(1697年)12月18日、叙任した。
元禄14年(1701年)2月、霊元上皇の院使として江戸に下向する清閑寺熈定の饗応役に任じられ、一方で播磨国赤穂藩主・浅野長矩が勅使の柳原資廉と高野保春の饗応役に任じられた。2人の指南役は高家肝煎の吉良義央であった。3月14日、浅野長矩の吉良義央への刃傷の際にも現場に居合わせ、梶川頼照らと共に浅野の取り押さえに加わっている。浅野の凶事の後も宗春の方は無事役目を勤め上げ賞賛された[1]。
宝永元年(1704年)、将軍家法事の公家衆饗応。 同年5月28日、初めて領地である伊予吉田に入った。以降、隔年に参勤交代するようになる。翌年6月1日に青山忠重の娘と結婚する。 宝永6年(1709年)、公家衆御門跡饗応。翌7年(1710年)には東山智恩院御門跡の饗応を担当した。
正徳3年(1713年)8月15日、官位を和泉守に改め、享保10年(1725年)12月2日にはさらに若狭守となった。諱を宗春から村豊(むらとよ)に変えたのもこの頃とされている[注釈 1][注釈 2]。
なお、正徳5年(1715年)5月、老中・松平信庸と前橋藩主・酒井親愛の許可を得て、21日間にわたり伊香保温泉へ湯治治療に出かけている。
享保17年(1732年)、享保の大飢饉に際し、吉田藩も虫害による損害2万5,000石、風水害による損害2,000石という大損害を出したため、幕府より3,000両を1年据え置きの5年払いで借りることを余儀なくされた。同年の年貢を常年の四分の一と免租し雑穀(麦稗)と根菜などを放出、備蓄米もあり一人の餓死者も出さなかった[2]。同じ伊予の松山藩は全国の三分の一を占める餓死者を出し、松平定英が老中から譴責を受けている[3][4]。
享保20年(1735年)、村豊は左京(四代・村信)の嫡子願いを提出し許可された。 元文2年(1737年)6月30日、伊予吉田藩の江戸藩邸にて死去した。法名は沢翁真龍大淵院。墓は東京都港区高輪の東禅寺。跡を村信が継いだ。村豊の44年の藩主治世は藩史「藤蔓延年譜」で見れる。
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