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桓武天皇の十二男。二品・大宰帥、贈一品・太政大臣。子に季世王(従四位上、侍従、美作守)、在世王(斎宮頭、相模守、従四位上、左世王)、康世王(従四位上、河内守)、胤世王-楊 ウィキペディアから
仲野親王(なかのしんのう)は、桓武天皇の第12皇子。宇多天皇の外祖父。官位は二品・大宰帥、贈一品・太政大臣。
仲野親王 | |
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時代 | 奈良時代末期 - 平安時代初期 |
生誕 | 延暦11年(792年) |
薨去 | 貞観9年正月17日(867年2月25日) |
墓所 | 山城国葛野郡高畠墓 |
官位 | 二品大宰帥、贈一品太政大臣 |
父母 | 父:桓武天皇、母:藤原河子 |
兄弟 | 平城天皇、朝原内親王、長岡岡成、伊予親王、良岑安世、嵯峨天皇、淳和天皇、葛原親王、大宅内親王、高津内親王、万多親王、高志内親王、明日香親王、仲野親王、佐味親王、坂本親王、賀陽親王、布勢内親王、葛井親王、安勅内親王、賀楽内親王、菅原内親王、甘南美内親王、伊都内親王、他 |
妻 | 菅野氏、当宗氏 |
子 | 茂世王、輔世王、季世王、秀世王、平房世、当世王、基世王、潔世王、平実世、十世王、在世王、康世王、胤世王、平利世、平惟世、宜子女王、班子女王 |
延暦24年(805年)8月に安芸国賀茂郡地50町を、12月に河内国交野郡白田2町を父の桓武天皇から賜った。
嵯峨朝の弘仁5年(814年)四品に叙せられた。淳和朝では天長3年(826年)上総太守、天長4年(827年)中務卿、天長7年(830年)大宰帥に任じられ、天長10年(833年)正月三品に進んだ。
仁明朝に入ると、承和5年(838年)上総太守、承和9年(842年)弾正尹、承和13年(846年)上野太守を経て、同14年(847年)二品に至った。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後まもなく式部卿に任じられると、仁寿3年(853年)常陸太守、貞観3年(861年)上総太守を兼ね、貞観5年(863年)大宰帥に遷った。晩年、輦車による宮中の出入り[1]と、禁野外での遊猟やそのための鷹と鶴の飼養が許されている[2]。
貞観9年(867年)正月17日に薨去した。享年76。薨後20年を経た仁和3年(887年)光孝天皇の女御であった娘・班子女王所生の定省親王が即位(宇多天皇)したことにより、天皇の外祖父として一品太政大臣が追贈されている。
山城国葛野郡の高畠墓に葬られた。同墓は『延喜式』諸陵寮に近墓として見える。京都市右京区太秦垂箕山町に所在する現墓は1875年(明治8年)に治定されたが、学術上は「垂箕山古墳」と呼ばれる6世紀後半築造の前方後円墳であって時代が合わず、あるいはこの地の旧村名「中野村」の由来を親王墓に付会した解釈とも考えられる。ただし、現在のところ他に有力な遺称地などは知られていない。
幼い頃からわきまえがあって賢く、心が広くゆったりした性格であった[1]。
寿詞と宣命を宣読することに優れ、その音儀詞語は模範とされたが、当時の皇族でその作法に通じていることは非常に珍しいことであった。これは左大臣藤原緒嗣より伝えられたもので、のちに清和天皇の命により、当時参議であった藤原基経や大江音人らが仲野親王の住む六条第に赴いて、その音詞曲折を学んだという[1]。
注記のないものは『六国史』による。
『本朝皇胤紹運録』による。
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