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京都の職住一体型の住居形式 ウィキペディアから
京町家(きょうまちや)とは、1950年(昭和25年)以前に京都市内に建てられた町屋を含む木造家屋である。昭和40年代の民家ブームの際につくられた造語であり、江戸時代にこのような言葉はなかった[3][4]。
太平洋戦争中の米軍による日本の都市に対する無差別爆撃によって、全国で多くの町屋が失われたが、京都市は原爆投下候補地とされていたために通常爆撃が限定され、江戸時代から明治初頭に江戸時代の技術で建築された町屋遺構が焼失せずに残った[5]。昭和40年代の民家ブームにおいて注目されるようになり、それが高度経済成長期の建て替えで減少し始めると、京都市はこれを観光資源とするため、現行の建築基準法が施行される昭和25年以前の古い木造住宅をひとくくりにして「京町家」とよぶようになった。そしてその特徴を「鰻の寝床・鰻ずまい」「職住一致」などとした(実際には、江戸時代は、町にある建物は形や生業に関わりなく町家とされ、空家でも町家であった)[3][4]。
2010年8月、京都市が市内全域を対象に京町家の実態調査を行った結果、4万7735軒が残存しており、うち10.5%が空き家であると分かった。江戸時代の京町家は全体の2%で、明治時代のものも97%あった。また中京区などの都心部では、1996年に行った調査に比べ約9割増加していることも判明。老朽化や住人の高齢化が主な理由とみて、市は調査結果をデータベース化して保存・再生の仕組みや政策づくりに反映させるという[6]。
京町家に住む所有者の多くは高齢者である。高齢者(65歳以上)だけの世帯は35%を超え[6]、子供たちは別の場所に移り住んでいることが多い。そのため、相続が発生した際に、次世代に現状のまま引き渡すことができるかが課題となっている[7]。所有者の36%が「できる限り残したい」との思いを持つ一方で、地価の高騰を反映して相続税の負担が非常に重く、維持改修費用も高額で、公的補助がない中では現実的でない[6]。それでも京都市は、市民による京町家の保存・活用を図っており、空き家の利用希望者を募集するなど様々な施策を打ち出している。2017年11月には「京都市京町家の保全及び継承に関する条例」(平成29年京都市条例第12号、通称:京町家条例)を制定した[8]。しかし、室町時代の1467年建築、つまり京都最古であったろう川井家住宅(中京区西ノ京)が2018年に解体されるのを止められなかった[9](川井家住宅を買い取った業者に対し、この条例による協議の場が持たれたが、利用に関する有効な提案は示されなかった。それでも業者側は、京都市に対し遺構の買い取り、もしくは遺構を保存した上での集合住宅部分の高さ規制の緩和を提案したが、京都市は指定文化財ではないので公金は使えないとの姿勢を崩さす、交渉中も金利負担が続いていた業者側はやむなく解体した。なお日本国憲法は、個人の所有権を認めており、それには所有家屋の改築や解体も含まれる。そして所有権を制限する場合は、正当な補償を認めている)。
2016年度までの7年間で5600軒の京町家が取り壊されたが、一方で「京町家に住んだり、店を開いたりしたい」という需要や、京町家への滞在を希望する外国人を含む観光客も需要も多い。このため京町家の売買仲介、シェアハウスや店舗、宿泊施設などへの改修、運営代行を手掛ける地元企業も登場している[10]。これらに必要な資金を、利回りを目的とした投資だけでなく、京都の街並み保存を応援するためのクラウドファンディングで提供する動きも広がっている[11]。京都銀行[12]、京都信用金庫[13]、京都中央信用金庫[14]などの地元金融機関は京町家の改修費用などを融資する専用ローンを取り扱っている。
京町家は6つの型に分類される[15][4]。2011年の調査ではさらに看板建築を追加している[6]。
2010年の調査では、総二階(本二階)類型が全体の過半数を占め、看板建築も2割弱みられた。一方で、三階建はほとんど現存していないことが分かった[6]。
江戸時代半ばには現在残る形にのとなったとされる。外観は、紅殻格子(べんがらこうし)と呼ばれる色の濃い格子、虫籠(むしこ)窓、犬矢来などが特徴的である。2階建てが多いが、平屋や3階建てもある。
町家の立地する敷地は、間口が狭く奥行きが深いため、「うなぎの寝床」と呼ばれる。街路に都市住宅、とくに併用住宅が建ち並ぶ際には古今東西でこのような細長い敷地の町並みが成立しており、京都に限らず各地においてもその形状が課税のせいだとする俗説がある。[要出典]。また三間(約5.4m)の間口を一軒役として課税したことへの反発した形状とする説もある。しかし実際は、江戸時代の京都の税制は、間口幅に関係なく、まず町に対し総額が賦課され、それを、その町を構成する家持町人が分担する、つまり1軒いくらで負担する制度であった。これを軒役といい、江戸や街道筋に宿場の間口長さに対する税制とは異なっていた。したがって京都の間口長さと税金に関係はないが、明治初頭に新政府が間口長さ3間を1軒役とした時期があった。
京町家は、在来工法と異なり、基礎に石(一つ石、玉石)を用い、外壁は柱よりも薄い真壁造り。両側壁に通柱を並べ、その中央に中戸柱、大黒柱、小黒柱といった構造上重要な柱を置き、これらを相互に、また両側壁の通柱と結ぶことで全体構造を成立させている。このため大黒柱や小黒柱は、ほぼ同じ高さに接合加工が集中し、それによる削り取りが大きい。火事になると、わずかな焼損でこの部分の接合が外れて全体構造に影響を及ぼすことがあり、消火活動者にとっては極めて危険である。
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