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日本の公卿 ウィキペディアから
九条 教実(くじょう のりざね)は、鎌倉時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・九条道家の長男。官位は従一位摂政関白左大臣。九条家4代当主。通称に洞院摂政(とういん せっしょう)、洞院殿など。日記『洞院摂政記』の著者。
承久元年(1219年)鎌倉で3代将軍・源実朝が暗殺され源頼朝の血統が絶えると、父母が頼朝の縁戚にあたる九条家の子弟が摂家将軍として迎えられることになった。その際に教実もその候補に擬せられたが、結局三弟の頼経が将軍に迎えられることとなり、自身は九条家を相続することになった。九条家はこの教実の代に分裂し、次弟の良実が二条家、四弟の実経が一条家のそれぞれ祖となったため、教実以後の九条本家の系統を特に後九条家と呼ぶこともある。
安貞元年(1227年)右大臣、寛喜3年(1231年)左大臣となり、同じ年、父から関白と藤氏長者を譲られるが、実権は父に握られていた。安貞2年(1232年)に後堀河天皇が譲位して四条天皇が践祚するとその摂政となった。
天福元年(1233年)9月に藻璧門院が、翌年8月には後堀河院が相次いで崩御すると、朝廷ではこれは承久の乱ののち隠岐島へ遠国配流とされ皇統から外れた隠岐院(後鳥羽上皇)の怨念の成せる業だと噂されるようになった。そこで教実は父の道家らと共に上皇の帰洛を幕府に諮ったが失敗に終わった。それから間もなくの文暦2年(1235年)薨去した。
日付は旧暦による。
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