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世良田村事件(せらだむらじけん)とは、1925年(大正14年)に群馬県新田郡世良田村(現・太田市世良田町)字下原の被差別部落で起きた騒擾事件。世良田事件、世良田村水平部落襲撃事件[1]などとも呼ぶ。
1924年(大正13年)12月31日、世良田村三ツ木(現・伊勢崎市境三ツ木)の一般民の室田忠五郎が佐波郡境町(現・伊勢崎市境)の材木商田島美一郎方で「俺はボロを着ていてもチョウリンボウ(被差別部落民の賤称)ではない」などと発言し、それを剛志村上武士(現・伊勢崎市境)の剛志水平社同人の松島滝次郎が聞きとがめた。
1925年1月2日午後5時頃、剛志水平社や下原水平社の同人ら数十名は室田を松島滝次郎方に監禁し、取り囲み、糺弾を加えた[2]。その内容は、以下の通りであった。
この結果、室田は自らの非を認めさせられ、謝罪の講演会を開くこと、講演会の開催費用は自己負担することを約束させられたが、村の交渉委員の栗原丑吉たち下新田の一般民の反対を受けて講演は中止となる。憤慨した下原水平社の松島粂蔵や橋本庄蔵らが「丑吉の野郎をぶっ殺してしまう」と放言したため、栗原丑吉たちは水平社の来襲に備えて竹槍を用意した[4]。なお室田に対する上記のリンチ事件については、のちに脅迫罪・傷害罪・監禁罪で水平社同人ら5名が起訴され、坂本と関根と川田が懲役6月の実刑判決、松島喜三次と松島秋芳はそれぞれ懲役5月・執行猶予3年の有罪判決を受けている[5]。
この室田リンチ事件について、水平社側の立場から報じた『水平月報』1925年2月15日号では「本年一月二日松島君は忠五郎を自宅に招き、淳々と其不心得を諭した、此時、世良田村の同人は六名も立合つた其結果、忠五郎はよく理解し、自己反省を幾度か弁じ」云々と記したのみで、集団暴力の事実に一言も触れていない。
部落解放同盟の立場から書かれた丸山友岐子『解放への飛翔』82頁では、室田へのリンチ事件が一部の新聞のヨタ記事として片付けられており、水平社同人5名への有罪判決については何も書かれていない。
世良田村事件 | |
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場所 | 群馬県新田郡世良田村(現・太田市世良田町)字下原 |
日付 |
1925年(大正14年)1月18日 午後7時ごろ[6] – 翌日午前3時ごろ[6] |
攻撃側人数 | 約2000人 |
武器 | 竹槍・金棒・手鳶・金槌・竹棒など |
負傷者 | 36名(松島藤三郎・松島才治郎・松島カツ・橋本梅吉・松島キン・松島松蔵・松島銀蔵・松島金作・杉本比良・松島鶴松・松島嘉吉・松島寅五郎・松島三五郎・松島太三郎・松島トミ・松島幸八・松島栄太郎ほか) |
損害 | 全治約7日の負傷など、家財の焼失 |
犯人 | 普通民48名(石井才三郎・富岡染蔵・富岡学治・小幡与平・大倉縫蔵・小幡愛三・河田実・高橋覚之助・栗原英逸・栗原箔次・栗原治男・古郡保雄・小林寅造・清水新三郎・正田馨・城田新蔵ほか) |
動機 | 復讐 |
対処 | 騒擾罪・傷害罪・建造物損壊罪による懲役刑・罰金刑 |
世良田村では上記事件の前、1923年から水平社の糺弾に対抗すべく、茂木高十郎の主唱で、下原を除く12の字(あざ)、すなわち
の村民による自警団が結成されていた[7][8]。この自警団は、関東大震災(1923年9月1日)における混乱を意識して作られたものであった[8]。
下原部落では下新田の一般民の動向を怪しみ、松島松蔵・橋本新助・松島幸八ら数名の部落民がおのおの棍棒を携えて下新田区長の栗原岩吉に押しかけ、表障子を押し開いて「親爺いたか」と怒鳴りこんだ[4]。これがきっかけで下新田の一般民と下原部落の住民の間に衝突乱闘が始まった[4]。下新田の自警団を中心として、1925年(大正14年)1月18日の晩に12の字から約2000人の農民が手槍や日本刀やピストルや棍棒を持って集結し、松島松蔵らに「チョウリンボウ出て来い、決死隊があるなら出て来い」などと叫び[9]、翌朝にかけて23戸120人の下原部落を襲撃、これにより36名の負傷者が出た。その内容は、以下の通りであった。
水平社も埼玉県から援軍を呼んで反撃した[11]が、下原部落の住民7人が負傷したほか、部落民の住宅12戸が破壊された。住宅の戸障子、家具、壁などは手当たり次第に破壊され、焚火に投げ込まれた[12]。
この結果、一般民の側からは153名が検挙され、うち76名が騒擾罪で起訴された。 1925年(大正14年)6月10日、前橋地方裁判所は19人に懲役6ヶ月から懲役4ヶ月(一部執行猶予付き)の判決、49人に罰金刑を言い渡した[5][13]。このうち9人が控訴。同年12月21日、東京控訴院は小幡与平に再び懲役6ヶ月を言い渡したものの、小屋鎌三ら3人については無罪を言い渡した[14]。
世良田の一般地区の者は、事件の背景について「糾弾が原因」、「(水平社による)暴力行為があったのに、警察が何もしないから」[15]、「やむにやまれずという気持ち」[15]、「こっちにしてみれば、何を今頃んなって、糾弾している時は何もしねぇでという気持ちがあるかんな。司法(警察)が介入して糾弾を止めさせることができねぇんだから。警察に対する恨みみたいなのもあったさ」[11]と説明している。また糾弾についても「吊るしあげだな」、「反省して、人間が変わるって、そう言わざるをえねえんじゃ」と述べている[16]。また、暴徒の出自についても「だいぶ応援に来てね、普段見ねえ人が。よそからの人が派手に暴れたのさ」としている[17]。
検事長谷川寧は『水平運動並に之に関する犯罪の研究』で「世良田村に於ける部落襲撃事件の如きは、徹底的糺弾の薬がききすぎて普通民の反感を買った結果であることは、何人も認むる所である。水平運動に対する頂門の一針であり、暁に響く警鐘であらねばならぬ。心せよ水平社同人、古諺に『過ぎたるはなお及ばざるが如し』と、蓋し名言なる哉」と記している[18]。
この事件後、群馬県では糾弾闘争の数が激減した。また、関東水平社内でも糾弾をめぐり内部分裂が発生した[19]。
なお、部落解放同盟の立場から書かれた丸山友岐子『解放への飛翔』85頁には、この事件で通りすがりの行商人1名(一般民)が部落襲撃への加勢を断ったために暴徒に殺されたと記されているが、この行商人の阿久津隅之丞(当時47歳、字出塚の者)は重傷を負っただけで死んではいない[20]。
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