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ヴァルデマール・クメント(ドイツ語:Waldemar Kmentt、1929年2月2日 - 2015年1月21日)はオーストリアの声楽家(テノール)。オペラ歌手。音楽教育者。ワルデマール、ヴァルデマー、ワルデマーなど表記は一定しない[1]。
ヴァルデマール・クメントはウィーンで上流階級の家庭に生まれた。彼の母親は、画家のグレーテ・クメント=モンタンドン[2]。若かりし時にウィーン国立歌劇場の火災を通行人として体験している[3]。彼は1947年に彼の同級生のエーベルハルト・ウェヒターとフリッツ・ウールと一緒に高校を卒業した[4]。彼は元々はピアニストを目指していたが、1949年からはウィーン国立音楽アカデミーで声楽を学び、エリーザベト・ラドー、アドルフ・フォーゲル、ハンス・ドゥハンに師事した[5]。すでに21歳のとき、彼はカール・ベームの指揮の下、ベートーヴェンの交響曲第9番のテノールパートを歌うよう招かれた。1951年からはウィーン国立歌劇場のメンバーとなり35年以上所属した。1951年6月26日、セルゲイ・プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』王子役でデビュー[6]。彼はリング通りに面した国立歌劇場で、トータルで1480回の公演で79の役を演じている。1945年3月の爆撃で歌劇場の建物が破壊されたため、1955年に再開されるまでは、国立歌劇場の公演はアン・デア・ウィーン劇場またはウィーン・フォルクスオーパーを代替会場としてで行われた。彼が国立歌劇場に最後に出演したのは2005年11月25日リヒャルト・シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』召使いであった。
若い時はリリック・テノールとして、 ウィーン・モーツァルトアンサンブルのメンバーとして活躍した。 彼の長いキャリアのレパートリーは、リリックなものや、若々しい英雄的なものから性格俳優的なものまで、オペラとオペレッタの役柄は80以上ある。彼はヨーロッパと日本とアメリカのすべての主要なオペラハウスで歌ってきた。彼は長年ザルツブルク音楽祭に招聘された。バイロイト音楽祭、エディンバラ・フェスティバル、エクサン・プロヴァンス音楽祭にも出演。コンサート歌手として、ヘルベルト・フォン・カラヤン、オットー・クレンペラー、カルロス・クライバー、カール・リヒター、カール・ベーム、オイゲン・ヨッフム、セルジュ・チェリビダッケ、レナード・バーンスタインとも共演した。
1978年から1995年まで、クメントはウィーン音楽芸術私立大学のオペラスタジオを主宰し、ヴォルフガング・バンクル、マリン・ハルテリウス、メアツァト・モンタツェリなど、今日の著名な歌手を数多く輩出している。
72歳の時、彼は『ナクソス島のアリアドネ』召使い役でメトロポリタン・オペラにデビューを果たした。その後、彼はウィーン・フォルクスオーパーの舞台で数年間性格俳優的な役を演じた。
クメントは2015年1月21日に生地のウィーンで85歳で亡くなり[7]、ウィーン中央墓地(グループ33G、ナンバー83)に埋葬された。
ヴァルデマール・クメントはウィーン国立歌劇場とウィーン・フォルクスオーパーの日本公演で合計6回来日し、計46公演を行っている[1]。
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