ワット・タイラーの乱
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ワット・タイラーの乱(Wat Tyler's Rebellion)は、1381年にイングランドで起きた反乱である。英語では「Peasants' Revolt(「農民反乱」の意)」と呼ぶことが多い(「Great Rising」とも呼ばれる)。また起きた年が1381年であることから、単に「1381年の農民反乱」と言われることもある。反乱の原因としては、1340年代の黒死病によって引き起こされた社会的、経済的および政治的な緊張、フランスとの百年戦争に起因する過酷な税金、およびロンドン市民の間の内部対立など、さまざまなものが挙げられる。
ワット・タイラーの乱 Peasants' Revolt | |
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ワット・タイラーの反乱軍と会見するリチャード2世 | |
戦争:民衆による反乱 | |
年月日:1381年5月30日 - 1381年11月 | |
場所: イングランド | |
結果:国王の勝利 | |
交戦勢力 | |
反乱軍 | イングランド王国 |
指導者・指揮官 | |
ワット・タイラー † ジョン・ボール † |
リチャード2世 |
反乱の発端は、1381年5月30日のエセックスで役人ジョン・バンプトンがブレントウッドで未払いの人頭税を徴収しようとしたことだった。彼への反抗から始まった民衆の蜂起はイングランド南東部に急速に広がった。各地の職人や村の役人を含む広い階級の人々が抗議のために立ち上がり、裁判所の記録を燃やし、刑務所の囚人を解放した。反乱軍は税金の削減、農奴制の廃止および国王リチャード2世の王立評議会と法廷の高官の解任を要求した。
急進的な聖職者ジョン・ボールの説教に触発され、ワット・タイラーが率いるケントの反乱軍の代表団はロンドンに進軍した。イングランド軍のほとんどはロンドンから離れた国外またはイングランド北部におり、当時14歳だったリチャードはロンドン塔に立てこもることしかできなかった。6月13日、ロンドンに入った反乱軍は多くの首都の市民と合流し、刑務所を攻撃し、サヴォイ宮殿を破壊し、テンプルの法律書と建物に火を放ち、複数の政府の関係者を殺害した。翌日、リチャードはマイルエンドで反乱軍に会い、農奴制の廃止を含む彼らの要求のほとんどに同意した。その間、反乱軍はロンドン塔に侵入し、大法官のサイモン・サドベリー(英語版)と財務長官のロバート・ヘイルズ (Robert Hales) を殺害した。
6月15日、リチャードはスミスフィールドでタイラーと反乱軍に再び会った。 会談の最中にロンドン市長のウィリアム・ウォルワースらによってタイラーは殺害された。リチャードは反乱軍を説得し、ウォルワースが反乱軍に対抗する民兵を集める時間を稼いだ。速やかにロンドンの秩序は回復に向かい、リチャードは以前の反乱軍の要求に対する同意を撤回した。反乱はイースト・アングリア全域にも広がり、ケンブリッジ大学が攻撃され、多くの政府関係者が殺害された。6月25日か26日にノース・ウォルシャムの戦い(英語版)でノリッジ司教ヘンリー・デスペンサー(英語版)が反乱軍を破ったことで反乱は鎮静化されていった。
反乱の影響は北はヨーク、ビバリー (イングランド)(英語版)、スカーブラ、西はサマセットまで及んだ。リチャードは秩序を回復するために4,000人の兵士を動員した。反乱軍の指導者のほとんどは追跡されて処刑され、11月までに少なくとも1,500人の反乱軍関係者が殺害された。
ワット・タイラーの乱は多くの学者たちにとって重要な研究対象とされてきた。反乱についての解釈は、長年にわたって変化して続けており、一時期は英国史における決定的瞬間とも見なされていた。この反乱は後に議会がフランスでの軍事作戦のために追加の税金を徴収することを思いとどまらせ、百年戦争の行方に大きな影響を与えた。反乱は作家のウィリアム・モリスらによって社会主義文学の題材として広く用いられ、1980 年代の人頭税(コミュニティ・チャージ)の導入をめぐる議論に影響を与えるなど、イギリスの左派にとって有力な政治的象徴であり続けている。