Loading AI tools
フランスの作曲家 ウィキペディアから
ロラン=マニュエル(Roland-Manuel, 1891年3月22日 - 1966年11月1日)はフランスの作曲家・音楽学者・音楽評論家。本名はロラン・アレクシ・マニュエル・レヴィ(Roland Alexis Manuel Lévy)といい、ロラン=マニュエルは通称である。ベルギー人とユダヤ人の血を引き[1]、ラヴェルの評伝や音楽史に関する著書で知られる。
1891年にパリで生まれた[2]。家族はベルギー出身だった[3]。少年時代をフロリダとリエージュで過ごしたが、1905年に父が没するとパリに戻った[2]。リエージュ時代にヴァイオリンと音楽を学びはじめ[3]、パリのスコラ・カントルムで対位法をアルベール・ルーセルに学んだが[3]、後にエリック・サティの勧めでモーリス・ラヴェルに入門し、ラヴェルの音楽の熱心な支持者になった[2]。ラヴェルについてはその生前から多くの論文を発表し、1938年にはラヴェルに関する最初の伝記(À la gloire de ... Ravel)を出版している[4]。ほかにサティ、オネゲル、ファリャに関する著書がある[2]。
1913年に最初の作品である歌曲集『薔薇の微笑のファリザード』が出版されたが、時をほぼ同じくして兵役につき、第一次世界大戦に従軍した[3]。
1927年の合作バレエ『ジャンヌの扇』にはラヴェルやルーセル、フランス6人組などの面々にまじってロラン=マニュエルも参加している。
作曲家としては主にオペラ・コミックと映画音楽、なかでもジャン・グレミヨン監督作品のための曲を残した[5]。
ロラン=マニュエルは、ピョートル・スフチンスキーとともにストラヴィンスキー『音楽の詩学』の元になった講義の執筆協力者とされる[6]。
第二次世界大戦でパリが陥落すると、ロジェ・デゾルミエールやルイ・デュレらとともにレジスタンスの音楽団体である国民戦線 (fr:Front national des musiciens) に参加した[3]。
1947年に国際現代音楽協会(ISCM)のフランス副代表、およびパリ音楽院の音楽美学の教授となった[2]。1949年にはUNESCO音楽評議会にかかわるようになった[2]。
1944年のパリ解放以来没する1966年まで22年間にわたって日曜日のラジオ番組『音楽のたのしみ』(Plaisir de la musique)でクラシック音楽を紹介し続けた[7]。番組は若いピアニストのナディア・タグリーヌ (Nadia Tagrine) を相手役とする対話で構成され、ときにゲストを呼んで進行する。1947年にスイユ出版社から番組名と同じ4冊の書物が出版された[7]。内容は巻1が「音楽の要素」、巻2が「ベートーヴェンまで」、巻3が「ベートーヴェンから今日まで」、巻4が「オペラ」となっている(吉田秀和による日本語訳が白水社から出版)。
1960-1963年にはガリマール出版社のプレイヤード百科事典の「音楽の歴史」(Histoire de la musique, 2巻)の主編をつとめている[3][8]。
1966年にパリで没した[2]。子に著作家でラジオパーソナリティのクロード・ロラン=マニュエル(1922-2005)がある[9]。
より詳細な一覧は以下を参照:Manuel Cornejo (2019), “Colloque Roland-Manuel (novembre 2016) | Repères sur Roland-Manuel”, La Revue du conservatoire (パリ国立高等音楽・舞踊学校) 7
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.