リード・スムート
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リード・スムート(Reed Smoot、1862年1月10日 - 1941年2月9日)は、アメリカ合衆国ユタ州の政治家、実業家である。
概要 リード・スムート, アメリカ合衆国上院議員 ユタ州選出 ...
リード・スムート | |
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Reed Smoot | |
アメリカ合衆国上院議員 ユタ州選出 | |
任期 1903年3月4日 – 1933年3月3日 | |
前任者 | ジョゼフ・L・ローリンズ(英語版) |
後任者 | エルバート・D・トーマス(英語版) |
個人情報 | |
生誕 | (1862-01-10) 1862年1月10日 アメリカ合衆国 ユタ準州ソルトレイクシティ |
死没 | 1941年2月9日(1941-02-09)(79歳没) アメリカ合衆国 フロリダ州セントピーターズバーグ |
政党 | 共和党 |
配偶者 | Alpha Eldredge Alice Taylor Sheets |
子供 | 7人 |
親族 | エイブラハム・O・スムート(英語版)(父) |
教育 | ユタ大学 ブリガムヤング大学 (BA) |
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共和党に属し、1903年から1933年までユタ州選出上院議員を務めた[1]。1930年のスムート・ホーリー関税法の共同提案者の一人であり、この法律は、J.P.モルガン(英語版)のトーマス・W・ラモント(英語版)が「世界中でナショナリズムを激化させた」と批判するなど[2]、世界恐慌悪化の原因の一つとみなされている[3]。
また、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者であり、1900年に十二使徒定員会(英語版)の使徒(英語版)(教団幹部)に選出され、1941年の死去までその職にあった。1903年にスムートが上院議員に選出されると、教団内でのスムートの役割(同教団が一夫多妻制を今なお維持しているという噂や、アメリカ合衆国に対する復讐の宣誓(英語版)の存在などを含めて)[4]が問題視され、4年間に渡る論争となった。上院ではリード・スムート公聴会(英語版)が開かれ、スムートに上院議員としての適格性はないと本会議に勧告されたが、本会議で勧告は否決された[4]。1932年の選挙で落選したことにより、政治とビジネスから引退し、ユタ州に戻って以降は教団に専念した。死去の時点で、教団最高指導者の継承順位は第3位だった[1]。