リチャード・クート (初代ベロモント伯)
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リチャード・クート(初代ベロモント伯爵、英: Richard Coote, 1st Earl of Bellomont、Bellamontと綴られることもある、1636年 - 1700年/1701年3月5日[1])は、1683年から1689年は「クート卿」と呼ばれ、イングランド議会の議員となり、後に北アメリカ植民地の総督を務めた。アイルランドに生まれ、ウィリアム・アンド・メアリーを早くから支持し、名誉革命で彼らの側に就いた。
概要 The Right Honourable 初代ベロモント伯リチャード・クートRichard Coote, 1st Earl of Bellomont, 第12代 ニューヨーク植民地総督 ...
The Right Honourable 初代ベロモント伯リチャード・クート Richard Coote, 1st Earl of Bellomont | |
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クートの肖像画、版画、1888年頃 | |
第12代 ニューヨーク植民地総督 | |
任期 1698年 – 1700/1年 | |
前任者 | ベンジャミン・フレッチャー |
後任者 | ジョン・ナンファン(代行) |
第3代 マサチューセッツ直轄植民地総督 | |
任期 1699年5月26日 – 1700年7月17日 | |
前任者 | ウィリアム・ストートン(代行) |
後任者 | ウィリアム・ストートン(代行) |
ニューハンプシャー植民地総督 | |
任期 1699年7月31日 – 1699年8月15日頃 | |
前任者 | サミュエル・アレン |
後任者 | ウィリアム・パートリッジ(代行) |
個人情報 | |
生誕 | 1636年 アイルランド |
死没 | 1701年(64 - 65歳没)年3月5日 ニューヨーク市 |
宗教 | プロテスタント |
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1695年、クートはニューヨーク、マサチューセッツ湾、ニューハンプシャー各植民地の総督に任命され、その死の時まで務めることになった。新世界に渡ったのは1698年になってからであり、その総督としての任務の大半をニューヨークで過ごした。マサチューセッツ湾直轄植民地では1年を僅かに超えるだけ滞在し、ニューハンプシャー植民地に至ってはほんの2週間だった。ニューヨークに居た時は、ライスラーの反乱(1689年-1691年)から起きた政治の分裂で終始しており、またヌーベルフランスとの和平交渉にイロコイ族インディアンを関わらせないようにしておくのが難しく、結局成功しなかった。フロンティアでの問題はマサチューセッツやニューハンプシャーでも最重要な問題であり、製材業と、アベナキ族の脅威からの安全確保が任務の多くを占めた。
私掠船の船長だったウィリアム・キッドの主要な財政的後援者であり、キッドはその後海賊になったと考えられている。クートはボストンでキッドの逮捕を画策し、ロンドンに送らせた。キッドはロンドンで裁判に掛けられ、有罪となり、絞首刑に処された。