ボエモン2世 (アンティオキア公)
12世紀のノルマン人貴族。アンティオキア公(在位:1111年/1119年 - 1130年)・ターラント公(在位:1111年 - 1128年) を歴任。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
ボエモン2世(フランス語: Bohémond II d'Antioche, イタリア語: Boemondo II d'Antiochia, 1107/1108年 - 1130年2月)とは、ターラント公・アンティオキア公を歴任した12世紀のノルマン人貴族である。父親はボエモン1世であり、彼は1108年にデアボリス条約(英語版)の下で東ローマ帝国の権威を認め従属を強いられ、失意のうちに亡くなったが、その3年後、そんな父の跡を継いで母コンスタンス・ド・フランスの後見の下でボエモン2世はターラント公位を継承した。この頃ボエモン2世はまだ幼かったため、アンティオキア公国の運営は叔父タンクレード(1111年まで)、ルッジェーロ・ディ・サレルノ(英語版)(1111年から1119年まで)が実質的に取り仕切った。1119年にアジェ・サンギニスの戦い(英語版)でルッジェーロが戦死したのち、アンティオキア公国の統治はエルサレム王ボードゥアン2世が行った。しかしボードゥアンはボエモンのアンティオキア統治権に対する正統性を認識しており、アンティオキアをエルサレム王国に併合する気はなかったとされる。
ボエモン2世 Bohémond II | |
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アンティオキア公ボエモン2世 | |
在位期間 1111年または1119年 - 1130年 | |
摂政 |
タンクレード (?) ルッジェーロ・ディ・サレルノ(英語版)(?) エルサレム王ボードゥアン2世 |
先代 |
ボエモン1世 ルッジェーロ・ディ・サレルノ(英語版) |
次代 | コンスタンス |
在位期間 1111年 – 1128年 | |
摂政 | コンスタンス・ド・フランス |
先代 | ボエモン1世 |
出生 | 1107年または1108年 |
死亡 | 1130年2月 |
王室 | オートヴィル朝 |
父親 | ボエモン1世 |
母親 | コンスタンス・ド・フランス |
配偶者 | アリックス・ダンティオケ(英語版) |
子女 コンスタンス | |
信仰 | カトリック教会 |
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1126年秋、ボエモン2世はアンティオキアに入城した。彼は周辺のムスリム領主に対して数々の軍事遠征を敢行し成功させていたが、十字軍貴族ジョスラン・ド・クルトネーと対立したことで、その隙をついてテュルク系イスラム領主イマードゥッディーン・ザンギーがモースル・アレッポを占領。結果、ザンギーの勢力拡大に繋がった。一方この頃、1128年にシチリア伯(英語版)ルッジェーロ2世がターラント公国を征服した。ボエモンはその後、キリキア・アルメニア王国に対して軍事遠征を行ったが、遠征中にダニシュメンド朝のエミール・ガーズィー(英語版)の軍勢に奇襲され、殺害された。ボエモンの首はエンバーミングされたのちにアッバース朝のカリフのもとに送り届けられた。