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ホノウリウリ抑留キャンプ(Honouliuli Internment Camp) あるいは、ホノウリウリ収容所は、第二次世界大戦時ハワイで運営された主な5カ所の日系人強制収容所の一つ[1][2]で400人の日系人が収容された。また太平洋戦争後半にかけてハワイで最大の捕虜収容所として、イタリア、日本、韓国、沖縄、台湾からの4,000人以上の捕虜が収容された。2015年2月24日、バラク・オバマ大統領によってアメリカの国定史跡として認定されたが、まだ一般公開はされていない[3][4]。現在、考古学者と大学研究者が収容所跡地を調査し、将来的には一般に開放される予定[5]。
1943年3月2日に、ホノウリウリ収容所が開設され、1941年12月8日の真珠湾攻撃からすぐに収容所として使用されたサンド・アイランド収容所から多くの収容者が移送された。ハワイの住民全体のほぼ4割の16万人が日系人で、その内の約400人がホノウリウリ抑留キャンプに収容された。カリフォルニアなどでは日系人が一斉に収容されたのに対し、ハワイでは日系人の比率が高く、かつ土地が限られていることから、指導的立場など一部の人だけ収容された。収容者はホノウリウリを「地獄谷」と呼んだ[6]。
太平洋戦争終盤にかけ、ハワイは16,000人以上の捕虜の収容場所となった。これらの男性のうち4,000人以上 (主に鉄血勤皇隊・通信隊の少年兵を含む沖縄人捕虜[11]と日本軍に徴用されていた朝鮮人軍夫[12]) がホノウリウリに移送された。4,000人の収容を補うため、一つのテントに6人から8人の男性を収容した。
1943年11月、タラワの戦い、マキンの戦いでの米軍のギルバート諸島占領にともない、最初の捕虜の一団として、日本軍に徴用されていた朝鮮人軍夫が到着し[13][14]、民間人の強制収容施設から収容者が入れ替わる形で、段階的に捕虜収容所となっていった。朝鮮人軍夫と日本兵との間の衝突を避けるために区画が分けられた。戦争の終わりまでに、最終的に収容所は3,980人の捕虜を収容した。復員は1945年12月に始まり、翌年まで続いた。
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